古九谷を追う&古九谷を残す

週1くらいの更新になります

新前田三代論 前田三代の虚実

「古九谷」はファインアート

私:金沢に「国立工芸館」ができた。東京国立近代美術館の分館である東京国立近代美術工芸館が東京から移転したもの。この N:「古九谷」はありますか? 私:ない。「古九谷」は「近代」ではない。 N:そもそも「工芸」とは? 私:工芸とはクラフトだ。工芸…

遊び心が跳ねる鷹峰の「古九谷」 

私:遊び心で「古九谷」を締めくくろう。天才には遊び心がある。鷹峰にも「古九谷」にも遊び心がある。まずは光悦から。国宝「楽焼白片身変茶碗」の箱に「不二山 大虚菴(虚菴は光悦の号)」と自筆で記し、印もつく。日本初の試みだ。 N:箱書きですね。 私…

鷹峰の天才(2)俵屋宗達

Ñ:では俵屋宗達が「古九谷」につながるものは何ですか? 私:「古九谷」には「宗達手」がある。宗達は謎の絵師で、生没年が不明だ。素性にも不明なところがある。宗達は本阿弥家生まれで、その本阿弥家から絵師ゆえに義絶されたともいう。 私:宗達を世に出…

鷹峰の天才(1)本阿弥光悦

私:いよいよ「古九谷」は誰がつくったか? その問題を語ろう。大胆に推理すれば、利政人脈だと思っている。利政の「古九谷」人脈は「鷹峰」人脈(本阿弥光悦と俵屋宗達など)だ。 N:鷹峰とは? 私:大坂の陣の後、光悦は家康から8万坪を拝領して、一族縁者…

利常の文化政策(3)信長の文化政策 vs  利常の文化政策

私:利常の文化政策も終盤に入ってきたな。信長の文化政策と比較して、利常の文化政策を語ってみたい。さて信長は「茶器」を領土(一国一城)にした。信長のパラダイムシフトには目を瞠る。これを「御茶湯御政道(政治に文化を持ち込む)」という。政治の報…

利常の文化政策(2)利常は時空を超える百万石文化の礎を築く

私:利常の「文化政策」は加賀藩を劇的に変えたが、そこにも利常の人間性が垣間見られる。2代利長の死と豊臣家の滅亡や島原の乱の鎮圧は、利常に権力や信仰の脆さをつくづく感じさせた。 N:権力や信仰の脆さが利常の文化政策にどう影響を与えたのでしょう?…

利常の文化政策(1)家康の前田文化立藩指令

私:いよいよ、作蔵君、話は佳境に入る。前田三代の「文化政策」を語ろう。 N:文化政策にも家康指令がありましたよね? 私:徳川は前田に「文化立藩」の方向性を指し示した、禁中並公家諸法度の前田版といえよう。だから後水尾天皇と利常の文化政策は瓜二つ…

利常と「古九谷」

N:しかし「茶」と「古九谷」の結びつきが……。 私:「茶」の世界の裾野は広い。手仕事の世界は「美」の世界だ。「湯釜」、「箔」、「漆器」、「友禅」、「縫」、「竹細工」、「表具」そして「和菓子」。金沢の和菓子は降嫁する珠姫のために「5色生菓子」を…

利常と天信仰神

私:さてキリスト教から天神信仰へ話を移そう。利常はキリスト教に代わる信仰として天神信仰を始める。利常が菅原姓に固執したのも天神信仰がゆえだ。そして利常は天神信仰のため次の二つのことをした。一つは本姓をまず菅原にしたのだ。 N:あれ? 前からで…

利常とキリスト教

私:話をがらりと変え、利常とキリスト教との距離感を語ろう。時代の風は利常にキリスト教信仰を許さなかった。しかし利常は棄教を簡単には受け入れられなかった。 N:利長が豊臣と徳川の狭間で悩み続けた。それと似ていますね。 私:そうだね。右近が去ると…

利常は「傾奇者」(3)徳川への反抗心と改姓固辞

私:次は反骨心つながりで、「源」氏への改姓拒否について話そう。相手は天海だ。天海が利常に勧告したのは1641年で、利常が小松に隠居して2年後のこと。しかし利常は「源」を名乗らず、「菅原姓」に固執した。 N:菅原道真の菅原ですか? 私:そうだね…

利常は「傾奇者」(2)徳川への反抗心 金沢東照宮と四国拒否

N:ところで「傾奇者」利常のスカッとした話はありませんか? 私:そんな話があれば、徳川に潰されかねない。 N:あっても徳川への陰口くらいのレベルですか? 私:4代光高が東照大権現(家康)を金沢城に勧請する。この時に利常は子を諌めた。「徳川が衰え…

利常は「傾奇者」(1)鼻毛、立ちション、陰嚢

私:ここからは人間利常に迫ろう。じつは利常は金沢では人気がない。前田家をよそ者だと思う石川県民は少ないが、しかし利常をよそ者だと思う金沢市民は意外に多いのだ。 N:どうしてなのでしょう? 私:利常は利家とまつの子ではないからだな。金沢では利家…

No.2戦略(5)徳川の前田 宮家との姻戚関係

私:しかし宮家との姻戚関係では、思いもかけないことがある。5代綱紀のひ孫になんと女帝がいるのだ。 N:え! 私:後桜町天皇で、綱紀は天皇の曽祖父になる。徳川綱吉から綱紀に上意があり、直姫(綱紀6女)が二条吉忠親王に輿入れとなる。 N:前田をNo2…

No.2戦略(4)徳川の前田 徳川からの降嫁 

私:次は「徳川の前田」の将軍家からの降嫁と将軍養女の降嫁を述べよう。将軍家からの降嫁は溶姫(11代家斉)のみで、将軍養女の降嫁はない。 N:溶姫を迎え入れた赤門が東大の赤門ですよね。 私:家斉は40人もの側室を抱え、こどもは55人だ。溶姫は21女で、…

No2戦略(3)前田三代 宮家との姻戚関係

私:さらに家光から利常に上意があり、富姫(利常3女)が八条宮智忠親王に輿入れとなる。当時は武家から宮家に嫁ぐことは誰も考えなかった。八条宮家は桂宮家とも呼ばれ、桂離宮はつとに有名だ。 N:八条宮智忠親王の血筋は? 私:後水尾天皇のいとこ。 N:…

No.2戦略(2)前田三代 徳川からの降嫁 

N:ところでそのNo2戦略の始まりは珠姫降嫁ですね。 私:そうだね。前田三代の将軍家からの降嫁と将軍養女の降嫁を述べよう。将軍家からの降嫁は珠姫のみで、将軍養女の降嫁は4代光高(3代家光)と6代吉徳(5代綱吉)だ。また家光異母弟の保科正之(会津藩…

利常「名君」伝説を覆す(2) 夏の陣

私:次は夏の陣だ。岡山口の陣容は一番隊大将利常、二番隊大将井伊直孝、本陣は秀忠だ。 N:しかし利常は、夏の陣では、首を3000あげて汚名を返上したでしょう? 私:利常軍1万5000 vs 大野治房4000。治房は秀忠の首を狙う。幸村が家康の首を狙…

利常「名君」伝説を覆す(1) 冬の陣の「真田丸」

私:さて次は前田三代のラストを飾り、利常を語ろう。まずは利常の「名君」伝説を覆すことから始めようかぁ。 N:大坂冬の陣でしょう? でも、夏の陣では冬の陣の失敗を挽回する活躍をみせ、3000もの首をあげましたよ。 私:大河ドラマ『真田丸』のヒットと…

南蛮寺キリシタン 金沢には南蛮の風が吹いていた

私:最後に利長のイメージを一新させる「南蛮寺キリシタン」を語ろう。 N:南蛮寺キリシタンって何ですか? 私:右近が26年も前田家にいて、家光のキリシタン禁教令が敷かれてもいないこの時代、右近のキリシタン派閥はキリスト教を布教三昧であったろう。作…

徳川の「裏」戦略(4)家光指名

私:3代将軍に家光を選んだことだな。 N:家光を選ぶことがどうして信長排除になるのですか? 私:家光は江(信長の妹・市の3女)の子ではない。『江の生涯』(福田千鶴)によれば側室の子だ。歴史ファンの支持は多い。 N:家光は春日局の子じゃないのです…

徳川の「裏」戦略(3)利常指名

私:家康は利常を利長の次の加賀藩主に指名したが、利常はまつの子ではない。利家とまつの男の子は、利長と利政の2人きりだ。 N:利家と側室の男の子は? 私:利常を含め4人だな。 N:まつに男の子がいない。それじゃ、利長の次に家康もまつの子を選びよう…

徳川の「裏」戦略(2)信長嫌い

私:もう一つの家康の対前田戦略、つまり「裏」戦略を話そう。家康は信長を嫌い、信長的なるものを前田から排除した。 N:利政に信長的なものがあるのですか? 私:利政には利家的なものがある。家康は利政に利家と信長をみた。 N:家康と利政、2人の接点は…

徳川の「裏」戦略(1)利政の改易

私:前田に戻り、次は前田利政を語ろう。利政は利家とまつの次男で、能登七尾(小丸山)城主。利政が歴史に登場するのは関ヶ原合戦、まさにその時で、家康前田家が生き残りのために家を二つに分けた時だ。 N:真田家と同じですね。 私:前田家を利長(長男・…

家康の天下構想(2)外国対策 徳川のための鎖国

私:次は家康の外国対策を語ろう。基本的な考え方は家康=金日成かな? 家康も北朝鮮の金日成も政権の永続のために鎖国する。「徳川のための鎖国」=「金のための鎖国」だ。 N:鎖国は家康ではなく家光では? 私:鎖国を決断したのは家康で、オランダ船リー…

家康の天下構想(1)前田対策 No2戦略

私:ここからはがらりと話題を変えて、家康の対前田戦略を語ろう。それをNo.2戦略と呼ぶことにするね。No2戦略とはNo.1がNo.2を縁戚で一体化して、No.2を乗っ取る戦略だ。つまり前田を徳川と一体化して、前田の藩主を徳川の血でつなぐ。すなわち家康の根底に…

利長は和議反対派を一掃して加賀藩を守り抜いた

N:それでもまだ前田は徳川に屈服した印象があります。 私:そう感じるほど加賀藩が平穏になったのだが、そのために利長は二つの戦略を使った。一つは自分の政治的存在感を薄くした。薄くすることで加賀藩を守り抜いたのだ。一見支離滅裂にみえた行動、すな…

それでも前田は徳川に屈服した印象が強い

N:それでも前田は徳川に屈服した印象があります。 私:後世から見ると、あたかも利長が家康に屈服したかのような印象を与えているのは、関ヶ原後の加賀藩が平穏になったからなのだ。関ヶ原の「前」と「後」を区別しよう。「後」は江戸幕府が成立して、利長…

ニュー利長(3)利長は関ヶ原合戦を戦ってはいない

私:さて次は関ヶ原合戦を前田家は戦ってはいないことを話そう。家康は利長と右近の力を恐れて前田を金沢に釘付けにしたのだ。家康は関ヶ原に「前田の旗」を立てたくなかったし、豊臣恩顧の大名の動向にも影響を与えたくはなかったのだ。 N:証拠があります…

ニュー利長(2)利長の師は右近 右近の対「徳川戦略」

私:次は利長の師の高山右近について語ろう。利長に右近を配したのは利家だ。前田が存続できたのは、結果的に、この人事だった。信長・秀吉麾下の武将だった右近は戦国の浮き沈みをいやというほど見てきた。だからキリシタンの右近は利長に「不戦」の戦法を…