古九谷を追う&古九谷を残す

週1くらいの更新になります

新古九谷論

(6)切腹の儀式

N:利休の理解がぐんと進みました。 私:利休は「一期一会」をさらに「切腹の儀式」にまで昇華させた。 N:ほんとですか? 私:利休は十字架に磔にされるイエス・キリストの最期を、切腹の儀式で表現した。 N:所作? 茶道具? 私:茶杓は短刀であり、共筒は…

(5)そもそも利休の茶碗は髑髏なのか?

N:しかし利休はほんとうに茶碗を信長の髑髏盃から着想を得たのでしょうか? 私:いまの陶芸家の「茶碗」をみても、利休の髑髏(シャレコウベ)は想起できない。なぜか? 利休の子孫たちや楽の子孫たちが茶碗を再発明したからだ。つまり、利休のとんがった「…

(4)利休は、信長同様、キリスト教を選んだ

N:でもお茶(抹茶)はもともとは仏教の世界の話でしょう? どうして仏教じゃなくてキリスト教に話が飛ぶのでしょう? 私:最澄や空海のときは固形の茶(団茶)だった。栄西(臨済宗)のときに抹茶が伝わる。道元(曹洞宗)のときに茶礼が制定される。しかし…

(3)髑髏盃でキリストの血を飲む

私:そして信長の髑髏(シャレコウベ)が利休の茶碗に蘇る。 N:利休の茶碗は信長の髑髏ですか? そうだとすると、キリストのワイングラスが利休の髑髏(茶碗)になるということなのでしょうか? 私:そう。そしてキリストのワインが利休の抹茶となる。 N:…

(2)利休の「茶室」はキリストの囚われた監獄

N:では利休は何を発明したのでしょうか? 私:利休は草庵の茶(客と亭主が一座を建立する座敷の茶)を大成した。はやい話が茶を飲むのに「茶室」を設けたわけだ。 N:キリストの「最後の晩餐」は「食堂」でワインでしたね。ところで利休はミサを茶室にどう…

利休を見直そう(1) 「一期一会」と「最後の晩餐」

私:さて利休の茶だが、利休の茶は戦国の荒ぶる魂を鎮める。陣幕での茶会は「一期一会」となる。茶会は必勝を誓いもするが、この世での「別れの儀式」、「死への旅立ちの儀式」でもある。 N:それが利休の茶のほんとうの意味なのですか? 私:西洋では茶がワ…

利休を追う

私:作蔵君も知っているように、私は信長ファンだ。信長ファンであるがゆえに、利休が信長と一体として語られないことに大きな不満を持っている。で、利休は信長と一体でところで、信長存命中の利休は「死の商人としてのキリシタン」の貌もある。「茶室外交…

「古九谷」には信長と利休の「残照」がある

私:ここからの後半、今日の山場で、「古九谷」のコアに迫ろう。さて「古九谷」の歴史を俯瞰すると三つの流れになる。一つはスポンサーの流れで、信長-利長-利常。一つは茶人の流れで、千利休-古田織部-小堀遠州。そして最後の一つは陶磁器の流れで、楽…

「古九谷」と吉田屋 鼠生地と半磁器

私:1824年に吉田屋窯は九谷で開窯する。「古九谷」の再興を試みたのだ。ところで、吉田屋は「再興九谷の雄」とされる。では、どうして「再興古九谷の雄」とはいわれないのだろうか? N:なぜでしょう?ら? 私:「古九谷」の生地さえつくる技術はなかっ…

「古九谷」の祖 鷹峰と青木木米

私:さてここからは「鷹峰」が「古九谷」の祖であることを証明しよう。地元(加賀藩、大聖寺藩)だけの力では「古九谷」はできなかったのだ。 N:鷹峰が「古九谷」をつくったのは京都ですか? 加賀ですか? 私:どちらでもだろう。 N:鷹峰は利政人脈ですか…

江戸期を通して九谷は伊万里に一度も勝てなかった 私:さらに伊万里と九谷を対比させれば、江戸期を通して九谷は一度も伊万里に勝てなかった。宮中は「古九谷」にある「武家」的なところを嫌い、伊万里を好んだ。いわゆる御用達窯は九谷ではなく伊万里だった…

利常の「古九谷」はWスタンダード

私:いよいよ利常だ。なんと言っても「古九谷」のスポンサーだからさ。利常の「古九谷」はWスタンダードだ。表は東インド会社の意向で、しかし、裏は利常の意向だ。 N:東インド会社の意向とは? 私:九谷は伊万里のコピー基地の話さ。しかし、利常は東イン…

東インド会社のコピー基地(1) 伊万里

私:では、東インド会社の視点に立つと、鍋島(伊万里)や前田(九谷)はどう映っていたのだろうか? まずは鍋島から。出島の管理貿易で、鍋島は潤っていた。財力にも問題はないし、中国人、朝鮮人もいる。地理的にも便利である。 N:ところで鍋島って関ヶ原…

東インド会社主導説 角福は中国のブランド

私:作蔵君、もうそろそろグロージングに入ろう。「古九谷」のメインプレーヤーは利政と利常と利治。そして鷹峰と東インド会社だったよね。 N:東インド会社と利政人脈の「鷹峰」は意外な切り口でした。 私:開窯で説明した通り、「古九谷」は利政(鷹峰)が…

大聖寺藩のもう一つの「親戚説」 吉良上野介と浅野内匠頭 私:上杉定勝には4女がいる。名を富姫という。あの吉良上野介の妻だ。 N:え! 私:大聖寺藩は吉良ときわめて近い親戚だろ。 N:あれ? 吉良と親戚で、大石のリクルートとは? 先生、話、盛りすぎで…

大聖寺藩の「親戚説」 「古九谷」の技術が流入する

私:さて今度の話は作蔵君もアッと驚くだろうな。大聖寺藩はあの「大石内蔵助」をリクルートしていたんだ。 N:え! 私:大聖寺藩の親戚を語ろう。まず石川県九谷焼美術館提唱の「親戚説」から。初代佐賀藩主鍋島勝茂の長女は市姫で、米沢藩主上杉定勝に嫁ぎ…

大聖寺藩も加賀藩も「シリコンバレー」

私:さて今度は加賀藩・大聖寺藩のリクルートを語ろう。当時、大聖寺藩にも加賀藩にも、信長死後、関ヶ原後、そして大坂の陣後に、一流の人材が一気に集まってきた。 (a)第1期 信長死後 私:当時、前田藩は24万石から83万石へと高度成長期を迎えている。有…

大聖寺藩も加賀藩も「シリコンバレー」

私:さて今度は加賀藩・大聖寺藩のリクルートを語ろう。当時、大聖寺藩にも加賀藩にも、信長死後、関ヶ原後、そして大坂の陣後に、一流の人材が一気に集まってきた。 (a)第1期 信長死後 私:当時、前田藩は24万石から83万石へと高度成長期を迎えている。有…

利治の「古九谷」

N:ここまでの話で、利治の開窯も閉窯も明らかになりましたが、では、本藩の下請けから脱却した利治の独自の「古九谷」構想とはどのようなものだったのでしょうか? 私:利治は「古九谷」を売ろうとした。殖産興業としての「古九谷」、つまり産業としての「…

「古九谷」の閉窯時期

私:ところで閉窯は、利常・利治親子の死の年と考えている。利常は1658年、利治は1660年だ。 N:立藩から20年あまりですね。つまり「古九谷」の窯は20年間のみ稼働したのですね。 私:スポンサー(利常と利治)が死ねば事業は終わりだ。 古九谷を追う…

(2)承応2年(1653)説

私:利治は承応2年に開窯する。利治の開窯を祝して「承応弐歳」銘をいれた。 N:承応2年開窯の根拠は? 私:承応2年に大聖寺藩から加賀藩に人員移動があった。24人、総禄高1万5000石だ。江戸期を通じてこれほどの人員移動はない。 N:経費削減ですか?。…

前田利常が九谷で作らせた「古九谷」

私:ここからは大きく話題を変え、歴史的なアプローチで「古九谷」に迫ろう。 N:え! もう芸術的なアプローチは終わりですか? もう少し……。 私:では、歴史的なアプローチを終えてから、締めっくくりにふたたび芸術的なアプローチから「古九谷」に迫るね。…

「古九谷」の開窯時期(1)鍋島藩キリシタン陶工追放と大聖寺藩立藩

私:今度は「古九谷」の開窯と閉窯を語ろう。「古九谷」は、開窯時期も閉窯時期も特定されていない。従来の説では明暦元年(1655)開窯、その後50年間制作して、突然閉窯とされてきた。 N:先生の見解は? 私:開窯は4期に分かれ、1期利政、2期東インド…

家光を意識した「古九谷」

私:話は変わるが、「古九谷」は家光を意識している。利常は家光にないものをしっかりと認識していた。家康も、利家同様、朝鮮に渡海していない。だから朝鮮陶工を奪えず、そのため陶磁器制作の技術がない。だから「古九谷」をつくれば、家光に勝てる! 利常…

やきもの戦争 利家は敗北した

私:作蔵君、やきもの戦争を知ってるかい? 利家は、秀吉の世でも、やきもの戦争に敗北した。利家は朝鮮に渡海できなかったのだ。 N:西国大名は朝鮮人を何人連れ帰ったのですか? 私:7万人だな。陶工が一番多いが、農民、活版工、学者までもいた。 N:そ…

石川県立美術館から利治の名前が消えた

私:ところで県美から前田利治(初代大聖寺藩主・利常3男)の名前が消えたな。県美では利常、九谷焼美術館では利治になっている。 N:2016年九谷に「九谷焼開祖 前田利治公碑」が建立されましたよね。それなのに県美はなぜ利治より利常を選ぶのでしょう…

前田利常が九谷で作らせた「古九谷」

私:ここからは大きく話題を変え、歴史的なアプローチで「古九谷」に迫ろう。 N:え! もう芸術的なアプローチは終わりですか? もう少し……。 私:では、歴史的なアプローチを終えてから、締めっくくりにふたたび芸術的なアプローチから「古九谷」に迫るね。…

(4)「重文」は「古九谷」No.1との評価が高い

N:疑問に感じていることがあります。率直に訊きます。「重文」の「牡丹」は「古九谷」No.1との評価でしょう? しかし「色のハーモニー」と「色のヴァルール」の観点からみると、そうではないのでしょう? いったい何を基準にして「古九谷」をみればいいので…

二つの「牡丹」(3)3次元(立体)化

私:作蔵君、これから始まるこの話が「古九谷」の話の山場だ。さて「東博」の「牡丹」は画面から緊張感が漂う。それは武士の線から来ているのだろうか? しかし、それだけではない気がする。 N:何からきていると? 私:点や線だけではないし、面だけでもな…

(2)蝶は飛んでいるか?

私:ところで武腰潤氏による「東博」の「牡丹」の作品解説があった。この作品をみたことがきっかけとなり、「古九谷」作家になったとの驚きの告白があった。まず線の話があり、職人の線ではなく画家の線(武士の線)だとの指摘がある。その後、蝶の「位置」…