古九谷を追う&古九谷を残す

週1くらいの更新になります

(4)利常の「古九谷」は陣羽織

私:さあいよいよ約束の芸術的なアプローチで「古九谷」を語る時が来たね。利常は自分の好みを「古九谷」に爆発させたんだ。ある「古九谷」構想が利常に浮かんだ。「古九谷」――「陣羽織」構想だ。そう、利常の「古九谷」は陣羽織の世界なんだよ。 N:陣羽織…

(4)利常は霙だ 

N:ならば利常はどうみればいいのでしょう? 先生の冷徹な目で利常を語ってくれませんか? 私:利常の立場は、前田であり、徳川である。しかし、前田であり、徳川ではないとか、あるいは前田ではなく、徳川である、ではない。 N:なんだか微妙ですね。 私:…

(3)利家と利長を思う利常

私:そして利常は父(利家)を思い、兄(利長)を思った。 N:利常は利家をどう見ていたのでしょうね? 私:利家の織田家での存在は、一前線部隊の将として柴田勝家に追随する武将という立場だった。 N:まだ24万石ですものね。 私:一方豊臣政権での利家は…

(2)利政が利常を動かす

私:ここからはふたたび利常の心のコアに迫ろう。前にも触れたが、利常のアイデンティティーは利家だ。しかし利常は利家の子ではあるが、まつの子ではない庶子だ。しかも利常自身の権力基盤は徳川にあり、前田にはない。その徳川もいちいち難癖をつけ、あれ…

エンディング(1)利常は「古九谷」を陣頭指揮する

N:そうなるとプロデューサーの問題はどうなりますか? 遠州はアドバイザー&コーディネーター以上の存在になりませんか? 私:たしかにそうなのだが、利休の茶室の件から考えてみても、利常は「古九谷」は一人利常のみの関与の意識ではなかったか? 利常は…

(7)利常と茶人たちとの距離

私:もう「茶人を見直そう」を締めくくろう。利常が茶人たちをどう見ていたかのか? 利常の評価基準に基づいて、3人の茶人たちを改めて語り直そう。 N:利常の基準は何だったのでしょうか? 私:利常の評価基準は「魂」であり、利常が好んだのは、利家や信…

(6)小堀遠州はキリシタンか

私:さてここからは遠州はプロデューサーか? それに答えを出そう。 N:遠州がプロデューサーでないとすれば、遠州は何になるんでしょうか? 私:アドバイザー&コーディネーターかな。もしそうなら、遠州は単なる茶の職人だということになるね。・ N:じつ…

(5)小堀遠州と綺麗さび

私:次は遠州の美意識に移ろう。遠州は「古九谷」の作風を決定づけた。その作風を綺麗さびという。 N:綺麗さびとはどういう作風なのでしょう? 私:わびさびから脱却して誰からも美しいといわれる美が綺麗さびで、その美をさらに誰もが驚嘆する美へと「古九…

(4)小堀遠州

私:宗和に引き続いて、小堀遠州を語ろう。前田家と小堀家の親密な関係は、前にも述べたが、遠州没後に前田家は甥と孫を召抱えているくらいだ。では遠州はほんとうに「古九谷」のプロデューサーなのか? N:そこですよね、問題は。ここまでの先生の話の展開…

(3)金森宗和

私:次は金森宗和を語ろう。宗和は野々村仁清(京焼色絵の祖)の御室窯をプロデュースした人物で、仁清を色絵の世界に導いた。県美の第1展示室には国宝の「雉香炉」と重文「雌雉香炉」のみが常設展示されている。 N:いいものが県美にありますが、何か理由で…

(2)茶人 古田織部

私:さて、茶人の織部を語ろう。織部は漫画『へうげもの』(山田芳裕)で一躍世間に知られるところとなる。作蔵君は読んだかな? N:はい。織部に限らずどの登場人物も欲があり、人間臭くて、司馬遼太郎の『国盗り物語』のようでした。 私:ほお。利休の茶の…

茶人を見直そう(1)茶人とは

私:ここからは茶人を語ろう。古田織部、金森宗和、そして小堀遠州と進めよう。 N:そもそもですが、茶人とは? 私:茶人、茶人と気安く言うけれど、織部や遠州は大名だ。織部は山城西岡藩3万5000石の大名で、遠州は近江小室藩1万5000石の大名だ。 …

(4)信長後継

N:利常も、利家同様、信長後継を秘かに思っていたのでしょうか? 私:利常からはゼニの匂いがしない。「改作法」は利常の成果だけれども、織田のゼニ経済ではなく、徳川の米経済に軸足を置いているしなあ。 N:「古九谷」も売ろうという気配はありませんね…

(3)世界を見据える

N:ところで、先生、利常の目は世界に向いていましたかね? 私:利常は世界を見据えていた。東インド会社を通じてデルフトに注文した「和蘭陀白雁香合」(県美)をみても、利常の目は世界に向いている。 N:中国へは? 私:中国への高い関心は『八種画譜』の…

(2)改めて後水尾天皇の「文化サロン」とは?

N:改めて後水尾天皇の「文化サロン」を教えてください。 私:江戸幕府が日本を支配し、平和な時代が到来して、寛永文化が花開く。京都では対徳川を意識して後水尾天皇がその文化の中心になり、朝廷に「文化サロン」ができる。身分にとらわれなかったために…

(2)改めて後水尾天皇の「文化サロン」とは?

N:改めて後水尾天皇の「文化サロン」を教えてください。 私:江戸幕府が日本を支配し、平和な時代が到来して、寛永文化が花開く。京都では対徳川を意識して後水尾天皇がその文化の中心になり、朝廷に「文化サロン」ができる。身分にとらわれなかったために…

利常を見直そう(1)勤王の顔

私:今度は利常を追おう。利常のコアに迫りたい。利常は、信長や利休と違い、平和な世(元和偃武)を生きた。豊臣か? 徳川か? キリスト教か? 天神信仰か? 利常には、じつは、次第に小さなことになっていった。 N:そうなのですか?。 私:時代が利常をそ…

(9)利休の子孫たち

私:しかし、時間がたてば、2人の天才にも差がついてくる。人気は信長が利休をはるかに凌ぐ。 N:信長と利休、2人の天才につく差とは? 私:今、信長の家系はどうなっている? 利休の家系は? N:利休の家系は、表千家、裏千家、武者小路千家となり、続いて…

(8)キリスト教で戦国時代を終わらせる

私:信長と利休、この2人はとても眩しい。日本歴史史上屈指の人物だ。秀吉や家康にしろ、清盛や頼朝にしろ、彼らは覇権争いの勝者であるに過ぎない。 N:宗教があるか? 宗教がないか? それが違いということですか? 私:武力では人心を支配できない。人心…

秀吉の利休切腹の真意

N:このような利休をいったい誰が理解できたでしょうか? 信長だけでしょうね。 私:秀吉は理解した。 N:え! 私:しかし、秀吉は理解したがゆえに利休に切腹を命じた。 N:え! 私:利休切腹と秀吉の禁教令の時系列を確認すれば、利休切腹は1591年。右…

秀吉の利休切腹の真意

N:このような利休をいったい誰が理解できたでしょうか? 信長だけでしょうね。 私:秀吉は理解した。 N:え! 私:しかし、秀吉は理解したがゆえに利休に切腹を命じた。 N:え! 私:利休切腹と秀吉の禁教令の時系列を確認すれば、利休切腹は1591年。右…

(6)切腹の儀式

N:利休の理解がぐんと進みました。 私:利休は「一期一会」をさらに「切腹の儀式」にまで昇華させた。 N:ほんとですか? 私:利休は十字架に磔にされるイエス・キリストの最期を、切腹の儀式で表現した。 N:所作? 茶道具? 私:茶杓は短刀であり、共筒は…

(5)そもそも利休の茶碗は髑髏なのか?

N:しかし利休はほんとうに茶碗を信長の髑髏盃から着想を得たのでしょうか? 私:いまの陶芸家の「茶碗」をみても、利休の髑髏(シャレコウベ)は想起できない。なぜか? 利休の子孫たちや楽の子孫たちが茶碗を再発明したからだ。つまり、利休のとんがった「…

(4)利休は、信長同様、キリスト教を選んだ

N:でもお茶(抹茶)はもともとは仏教の世界の話でしょう? どうして仏教じゃなくてキリスト教に話が飛ぶのでしょう? 私:最澄や空海のときは固形の茶(団茶)だった。栄西(臨済宗)のときに抹茶が伝わる。道元(曹洞宗)のときに茶礼が制定される。しかし…

(3)髑髏盃でキリストの血を飲む

私:そして信長の髑髏(シャレコウベ)が利休の茶碗に蘇る。 N:利休の茶碗は信長の髑髏ですか? そうだとすると、キリストのワイングラスが利休の髑髏(茶碗)になるということなのでしょうか? 私:そう。そしてキリストのワインが利休の抹茶となる。 N:…

(2)利休の「茶室」はキリストの囚われた監獄

N:では利休は何を発明したのでしょうか? 私:利休は草庵の茶(客と亭主が一座を建立する座敷の茶)を大成した。はやい話が茶を飲むのに「茶室」を設けたわけだ。 N:キリストの「最後の晩餐」は「食堂」でワインでしたね。ところで利休はミサを茶室にどう…

利休を見直そう(1) 「一期一会」と「最後の晩餐」

私:さて利休の茶だが、利休の茶は戦国の荒ぶる魂を鎮める。陣幕での茶会は「一期一会」となる。茶会は必勝を誓いもするが、この世での「別れの儀式」、「死への旅立ちの儀式」でもある。 N:それが利休の茶のほんとうの意味なのですか? 私:西洋では茶がワ…

利休を追う

私:作蔵君も知っているように、私は信長ファンだ。信長ファンであるがゆえに、利休が信長と一体として語られないことに大きな不満を持っている。で、利休は信長と一体でところで、信長存命中の利休は「死の商人としてのキリシタン」の貌もある。「茶室外交…

「古九谷」には信長と利休の「残照」がある

私:ここからの後半、今日の山場で、「古九谷」のコアに迫ろう。さて「古九谷」の歴史を俯瞰すると三つの流れになる。一つはスポンサーの流れで、信長-利長-利常。一つは茶人の流れで、千利休-古田織部-小堀遠州。そして最後の一つは陶磁器の流れで、楽…

「古九谷」と吉田屋 鼠生地と半磁器

私:1824年に吉田屋窯は九谷で開窯する。「古九谷」の再興を試みたのだ。ところで、吉田屋は「再興九谷の雄」とされる。では、どうして「再興古九谷の雄」とはいわれないのだろうか? N:なぜでしょう?ら? 私:「古九谷」の生地さえつくる技術はなかっ…