ニュー利長(3)利長は関ヶ原合戦を戦ってはいない
私:さて次は関ヶ原合戦を前田家は戦ってはいないことを話そう。家康は利長と右近の力を恐れて前田を金沢に釘付けにしたのだ。家康は関ヶ原に「前田の旗」を立てたくなかったし、豊臣恩顧の大名の動向にも影響を与えたくはなかったのだ。
N:証拠がありますか?
私:豊臣対徳川の最終決戦大坂の陣のとき、江戸留守居に家康は福島正則、黒田長政、加藤嘉明(旧豊臣恩顧の大名)を指名した。関ヶ原の徳川勝利の立役者を江戸に留め置いたのだ。徳川の天下といえども、家康はこれほどまでに用心する。
N:家康はほんとうに用心深いですね。
私:この頃はまだ関ヶ原前の混沌の世。当然「前田の旗」は困る。家康は「和議」に持ち込む利長&右近の力を心底恐れていたのだ。
N:では大聖寺(石川県と福井県の県境)城攻めはどうなるんですか?
私:北陸は西軍(非徳川)がほとんど。それゆえ利長は西軍と和議を望むが、大聖寺だけが拒否して開戦に至る。城は1日にして落城して、利長は金沢へ帰城した。
N:まだ利長&右近の力を家康が心底怖れていた。そのことが納得できません。
私:ではさらに証拠をみせよう。ふたたび大坂の陣。豊臣対徳川の最終決戦大坂冬の陣はいつ始まったか? 大坂の冬の陣は利長の死の半年後に始まる。その日は、また、右近のマニラ出発の翌日でもあった。関ヶ原合戦が利家の死の半年後だったようにね。
N:家康はなるほど前田を怖れていますね。
●古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋