古九谷を追う&古九谷を残す

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家康の天下構想(1)前田対策 No2戦略

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私:ここからはがらりと話題を変えて、家康の対前田戦略を語ろう。それをNo.2戦略と呼ぶことにするね。No2戦略とはNo.1がNo.2を縁戚で一体化して、No.2を乗っ取る戦略だ。つまり前田を徳川と一体化して、前田の藩主を徳川の血でつなぐ。すなわち家康の根底にある思想は「No.2を裏切らすな!」なのだ。

N:「No.2を裏切らすな!」とは特異な思想ですね。

私:家康の祖父も父も主筋(信長)までもが家臣の謀反(裏切り)で殺されているからね。

N:早い話が、家康の国造りに前田を完全に組み込むのですね。

私:こう考えるとわかりやすいかな? 前田三代(利家・利長・利常)は政治的に「自公政権」だった。「自」は徳川。「公」は前田。そして、4代以降、「公」は「自」に完全に吸収された。それを「徳川の前田」と呼ぶ。

N:その仕掛け人は?

私:本多正信(家康の参謀)かな。藩主利常指名も、珠姫降嫁(利常6歳、珠姫1歳)も、利長の隠居も、本多政重家老採用も、文化立藩政策も、すべてが家康指令なのだ。

N:利常の賢さに驚いた利長が利常を後継藩主に指名する。それは作り話ですか?

私:そうなるね。関ヶ原後の83万石から120万石への加増。前田の地位を120万石に高める処遇こそがNo.2戦略の証拠なのだ。

N:どういうことですか?

私:120万石は上杉、毛利の関ヶ原「前」の石高。つまり徳川は前田を外様No.1の地位、かつてのNo.1上杉、毛利の120万石の地位にまで前田を高めたのだ。

N:加賀120万石の意味はそれだったのか!

私:石川県民はいまだに「幕府謀略史観」の安眠を貪っている。

N:幕府謀略史観とは?

私:幕府謀略史観とは外様藩の歴史解釈で、徳川幕府が虎視眈々と改易を狙い、様々な謀略を仕掛ける。しかし外様藩は「頭脳戦」で徳川の魔の手から逃れる。

N:利常の「鼻毛3センチ」も頭脳戦!? 

私:徳川と前田の格差を、石川県民は正確に認識していない。ゼニ(金保有)では決定的だが、しかし、米(石高)でも前田は120万石、徳川は550万石だ。財力が違いすぎる。ともあれ徳川は前田をNo2戦略で生かそう、生かそうとしている。その証拠は山のようにあるのに、石川県民は徳川は前田を潰そう、潰そうとしていたと夢想している。

N:山のようにある証拠の一つを教えてください。

私:第二の赤穂事件と呼ばれた采女事件がある。5代徳川綱吉の法会の最中に、利家の子孫(前田采女利昌・大聖寺新田藩主)が信長の子孫(織田秀親・大和柳本藩主)を殺害する。しかし江戸を震撼させた赤穂事件のわずか7年後のことであるにもかかわらず、幕府からのお咎め加賀藩にも大聖寺藩にも一切なかった。

  

●古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋