古九谷を追う&古九谷を残す

週1くらいの更新になります

南蛮寺キリシタン 金沢には南蛮の風が吹いていた

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私:最後に利長のイメージを一新させる「南蛮寺キリシタン」を語ろう。

N:南蛮寺キリシタンって何ですか?

私:右近が26年も前田家にいて、家光のキリシタン禁教令が敷かれてもいないこの時代、右近のキリシタン派閥はキリスト教を布教三昧であったろう。作蔵君、日本で最初にクリスマスを祝ったのは金沢だと知ってるかい? 1608年深夜に聖歌がこだました。教会は右近の知行地にあり、能登にもあった。教会とは南蛮寺のことで、加賀藩では、「あらゆる寺が南蛮寺」だった。右近は加賀藩を「アジアのローマ」にしようとしていたのだ。

N:アジアのローマ?

私:信長は「アジアのローマ」を目指して新しい国造りに邁進した。右近も金沢を「アジアのローマ」にしようと南蛮寺での布教をプロモートしていた。

N:では利長は?

私:利家が尾山(金沢)を「信長の理想郷」にしようように、利長は高岡を「右近の理想郷」にしようとした。利長は右近の理想郷を高岡でつくるべく高岡城の設計と町割りを右近に任せた。築城と開町に際して利長は関野を高岡と改名する。

N:なぜ高岡と改名したのですか?

私:高岡の岡は岡=丘=山。高山右近の高山にあやかり、高岡としたのだ。高岡は利長の決意と飛躍の改名であった。

N:ところで先ほど「あらゆる寺が南蛮寺」だと……。あらゆるとは、どういう意味ですか?

私:よく金沢には南蛮寺が2箇所にありうんぬんと語られるが、そういうレベルの話は、南蛮寺が特別で特殊なもの、つまり南蛮寺を「蔑視」している。そこに留まっている限り、加賀藩、前田三代はわからない。

N:えらく大きく出ましたね。

私:外国人宣教師が寺で布教していた。

N:え! 

私:だからありとあらゆる寺が南蛮寺なのだ。日本の信仰スタイルの特徴は仏教公伝でも明らかなように「トップ」がまず信仰する。そしてそれが下へ下へと降りてくる。キリスト教でも同じ。藩主から家老、家臣と降りてきて、ついに町人、農民に達する。そして農民は南蛮寺でキリスト教を信仰する。それを南蛮寺キリシタンという。

N:ちょっと信じられませんが……。

私:金沢は茶室が多い。宣教師は茶室でミサを捧げた。その茶室は前田家の茶室であり、豪商の茶室であり、南蛮寺の茶室であった。

N:時代の風ですかね。

私:まさしくそう。江戸時代では草履取りが天下人にはなれない。時代の風とはそういうもので、その一瞬に吹く風のことで、加賀藩には、この時期、南蛮の風が吹いていたのだ。ここらでトイレタイムとしよう。

 

●古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋