利常とキリスト教
私:話をがらりと変え、利常とキリスト教との距離感を語ろう。時代の風は利常にキリスト教信仰を許さなかった。しかし利常は棄教を簡単には受け入れられなかった。
N:利長が豊臣と徳川の狭間で悩み続けた。それと似ていますね。
私:そうだね。右近が去ると、利常は、キリスト教信仰への受容と拒否の振幅のなか、やがてキリスト教信仰を断念したのではないか。
私:加賀藩は右近のときで1500人だな。
N:加賀藩はキリシタンで溢れている。そんな話かと思えば、少ない感じがします。
私:1500人というのは洗礼名を持っているキリシタンの数で、加賀藩は藩主導でキリスト教を布教しているきわめて特異な信仰形態なのだ。
N:九州の潜伏キリシタンは個人の信仰ですものね。
私:しかもこれらのキリシタンの話はあくまでも右近が金沢に在中していたときの話で、徳川の禁教令の前の話だ。
N:利常はどうなのでしょう?
私:徳川の禁教令が出るまでは右近路線を堅持していた。
N:禁教令はいつですか?
私:檀家(寺請)制度の確立は大聖寺藩立藩のころ。禁教令そのものは家康のときにも発令していたが、豊臣家滅亡、島原の乱鎮圧を経て、禁教令は強い効力を持った。そのため利常は藩主導のキリスト教の布教を完全に取りやめた。
N:寺請制度の縛りは大名にも、武士にもですか?
私:もちろん。前田家は宝円寺だ。
N:宗達の墓のところですね。
私:思い出してみよう。利家が死ぬと? 利長が死ぬと? 徳川は大きな戦争を仕掛ける。
N:利家が死ぬと関ヶ原で、利長が死ぬと大坂の陣。では利常が死ぬと徳川は何を仕掛けたのでしょうか?
私:大名に厳しいキリシタン統制を敷き始めた。
N:話がちょっとしょぼいですが……。
私:作蔵君はまったく時代の空気が読めていないね。徳川の対キリスト教政策(平時)は関ヶ原にも大坂の陣(戦時)にも匹敵するものなんだ。関ヶ原や大坂の陣と禁教令が同じレベルの話だと認識してはじめて、利常が置かれている状況が把握できるのだ。
●古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋