古九谷を追う&古九谷を残す

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「古九谷」の開窯時期(1)鍋島藩キリシタン陶工追放と大聖寺藩立藩

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私:今度は「古九谷」の開窯と閉窯を語ろう。「古九谷」は、開窯時期も閉窯時期も特定されていない。従来の説では明暦元年(1655)開窯、その後50年間制作して、突然閉窯とされてきた。

N:先生の見解は?

私:開窯は4期に分かれ、1期利政、2期東インド会社、3期利常、そして4期利治となる。利政と東インド会社と利常は大聖寺藩立藩とともに開窯した。また利治は承応2年に開窯した。

N:根拠を教えてください。

私:利常は「古九谷」をつくるために大聖寺藩を7万石で立藩した。

N:大聖寺藩の立藩は「古九谷」をつくるためだったのですか?

私:もちろんそうだよ。鍋島藩は826人の日本人陶工を追放した(1637年)。利常はその陶工を得たことで、「古九谷」をつくるために大聖寺藩の立藩を決意したのだ(1639年)。

N:日本人陶工追放とは?

私;家光のキリシタン禁教令の影響で、日本人陶工(キリシタン陶工)が鍋島藩から追放される。利常は船を借り上げ、その陶工たちを加賀に運んだ。

N:日本人陶工だけで「古九谷」はつくれましたかね?

私:利常は中国人も朝鮮人も確保していた。彼らは平戸にいた。当時は明の混乱期だった。流れても来ていたが、東インド会社が連れても来ていた。平戸には加賀藩は御買物師を常駐させていたので、西廻り船(後の北前船)で彼らを九谷に運んだ。彼らは加賀に来て「古九谷」の制作に携わることになる。

N:乱暴な推論ですが、可能性はありますね。

私:平戸には根拠がある。「古九谷」の生地は平戸のそれと色や歪み具合に共通点がある。平戸から轆轤師が加賀に流れても来ていたが、生地も移入したのではないか?

N:前田得意の「リクルート」作戦ですね。

私:「古九谷」制作の準備がヒト・モノ・カネで整った。だから大聖寺藩立藩が「古九谷」のスタートなのだ。

  • 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋