古九谷を追う&古九谷を残す

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(2)承応2年(1653)説

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私:利治は承応2年に開窯する。利治の開窯を祝して「承応弐歳」銘をいれた。

N:承応2年開窯の根拠は?

私:承応2年に大聖寺藩から加賀藩に人員移動があった。24人、総禄高1万5000石だ。江戸期を通じてこれほどの人員移動はない。

N:経費削減ですか?。

私:「古九谷」は加賀藩の事業で、大聖寺藩は本藩の下請けだ。その関係を解消できたのが承応2年なのだ。利常の「古九谷」が軌道に乗り、成熟期を迎えた証拠になる。

N:余剰人員になった? 立藩以来「古九谷」の開窯に携わっていた人たちでしょう?

私:そうだね。利常も利治も前田の「古九谷」に自信を持ったのが承応2年といえる。この時利常が「古九谷」の第一線を退く。ここからは利治のみが「古九谷」に携わる。利治の開窯となる。 

  • 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋