古九谷を追う&古九谷を残す

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大聖寺藩も加賀藩も「シリコンバレー」

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私:さて今度は加賀藩大聖寺藩のリクルートを語ろう。当時、大聖寺藩にも加賀藩にも、信長死後、関ヶ原後、そして大坂の陣後に、一流の人材が一気に集まってきた。

 

(a)第1期 信長死後

私:当時、前田藩は24万石から83万石へと高度成長期を迎えている。有能な人材はいればいるだけ欲しい。

N:太田牛一(『信長公記』)は利長に保護されて加賀にいましたね。て、そして「天守指図」の岡部又右衛門は?

私:又右衛門は来てないが、利家の金沢入城の翌年には大工1000人が招かれる。尾張出身の池上家(安土城築城集団)は京都御所造営にも関係した名門中の名門。石垣築の穴太衆も召し抱えられた。

N:高山右近は?

私:1588年、右近(37歳)に利家(50歳)は3万石を申し出る。              

N:ほかには?

私:宝円寺住職の大透圭徐。武生、七尾、金沢。利家と移動をともにする。

 

(b)第2期 関ヶ原後(利家・秀吉死後)

私:敗戦大名の抱えていた重臣がどっと加賀藩大聖寺藩になだれ込み、利長は彼らを家老に据える。

N:宇喜多ですね?

私:豪姫(利家4女)が嫁いでいたことが大きい。宇喜多休閑、一色主膳、中村刑部。

N:小西(行長)からは?

私:内藤如安、内藤ジュリア。彼ら敗戦大名の重臣たちは加賀藩の政治に安定感をもたらした。異色なところでは白山市にある浅野太鼓。利常が「皮革師」の育成を目的に播磨国から呼び寄せた。

 

(c)第3期 大坂の陣後(豊臣家滅亡)

私:なんといっても本多政重だ。本多家臣団の半数が上杉・直江の出身者だ。

N:家康指令でしたね。

私:そして『信長記』、『太閤記』の小瀬甫庵。また信長の弟有楽斎の孫の3人が加賀藩大聖寺藩の3000石の家臣だ。真田も茶坊主として大聖寺藩にいる。そして利常お決まりの「芸術家・職人集団」が山脈をなす。

N:鍋島からの陶工の流入もありましたしね。

私:江戸幕府成立で政治の中心地が京から江戸に移る。そのため京の「職人」の繁栄も陰りを見せ始める。

N:前田得意のリクルート作戦で引き取ったのですね。

私:京から金沢へ流入した職人(御細工所)が、加賀文化の隆盛に、大きな役割を果たしたのは間違いない。

  • 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋