古九谷を追う&古九谷を残す

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「古九谷」の祖 鷹峰と青木木米

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私:さてここからは「鷹峰」が「古九谷」の祖であることを証明しよう。地元(加賀藩大聖寺藩)だけの力では「古九谷」はできなかったのだ。

N:鷹峰が「古九谷」をつくったのは京都ですか? 加賀ですか?

私:どちらでもだろう。

N:鷹峰は利政人脈ですか? それとも利常人脈ですか?

私:利政から利常へと次第に人脈の交代が進んだ。後水尾天皇寛永の文化サロンで利常は大きな存在となっていく。

N:利常は天皇の義兄であり、親王の義父でしたものね。

私:では「古九谷」の祖(1期「古九谷」)を鷹峰とするその二つの根拠を示そう。一つは青木木米を京都から招聘していること。なぜ京都からなのか? もう一つは「再興九谷の雄」吉田屋が「古九谷」に挑むも……。なぜ吉田屋は「古九谷」を再興できなかったのか? それを語ることで鷹峰が「古九谷」の祖だと証明しよう。

N:なぜ京都から名工招請する必要があったのですか?

私:「古九谷」を再興するときに、加賀藩は陶工を2人招聘する。1人は青木木米。絵師で京焼の当代切っての名工だ。もう1人は本多貞吉。肥前島原藩出身で木米の弟子だ。

N:いつごろのことですか?

私:1807年、古九谷廃窯から100~150年後のこと。人

N:「古九谷」の技術はもうなくなっていたのですか?

私:そうだね。木米招聘は「絵付(の技術)は京にあり」と雄弁に物語っていないか? しかし、光悦(鷹峰)は前田の知行を食む。彼らは加賀藩士の家系だ。彼らが「古九谷」をつくるのは、きわめて当たり前のことだ。

  • 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋