古九谷を追う&古九谷を残す

週1くらいの更新になります

(7)利常と茶人たちとの距離

 

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私:もう「茶人を見直そう」を締めくくろう。利常が茶人たちをどう見ていたかのか? 利常の評価基準に基づいて、3人の茶人たちを改めて語り直そう。

N:利常の基準は何だったのでしょうか?

私:利常の評価基準は「魂」であり、利常が好んだのは、利家や信長や利休そして利長や右近の魂であったろう。 

N:利常のアイデンティティーは利家で、利家のアイデンティティーは信長だからですか?

私:魂ある生き方には心を打つ物語が必ずある。利休にはたしかにある。では織部にはあるのか? 遠州にあるのか? 織部には物語がある。秀吉から師の利休は京を追放される。淀の船着場での見送りは、秀吉を憚り、織部と細川三斎のみ。利休は最後の茶会に用いた手作りの茶杓織部と三斎に与える。織部に与えられた茶杓は「泪」と命名される。長方形の窓をあけた漆塗りの筒をつくり、その窓を通して茶杓を位牌代わりに織部は拝んだ。

N:遠州には?

私:遠州にあるのはエピソードぐらいのものかな。

N:織部の物語は殉死で幕を下ろすのでキリシタンです。

私:織部は豊臣家と徳川家の平和共存を家康に2度も直接訴える。その結果、織部切腹と一家断絶に遭う。

N:遠州は?

私:秀吉が死ぬと、豊臣から徳川へ乗り換えている。義父(藤堂高虎)の強い勧めによる。

N:高虎は日本一の世渡り名人で、大坂の陣では豊臣の金蔵を急襲した人物ですね。

私:利常は遠州が一番付き合いやすかっただろう。人的環境において、利常は遠州との相似を感じていた。つまり、遠州も利常も、自分を超える力に導かれて、徳川の権力構造のなかで生きる相似性をお互い感じていたのだ。

N:遠州の「魂」は好まなかったということですか?

私:どうだろうなあ。それはともかく遠州と利常は15歳違う。一回り以上遠州が年上で、

利常は遠州に憧れていた。

N:そうなのですか?

私:遠州は日本のレオナルド・ダ・ビンチといわれるほど多彩で、美における先駆者として、利常は遠州を師ともお手本ともしていたのだ。

N:要は肉を喰らい、骨をしゃぶるように、利常は遠州を血や肉としたのですね。ということは利常は遠州に心酔していたのですかね。 

私:遠州の茶室といえば、長流亭や擁翠亭は有名だが、加賀藩邸(本郷)にも隠居所の小松城にも「遠州座敷」があった。とくに加賀藩邸の遠州座敷は幕府の大老や他藩の大名の垂涎の的だった。しかしことを複雑にしているのは小松城の遠州座敷だ。利常の心の底が垣間見て取れる。小松城のそれは死の5、6年前で、小松隠居から12年後のこと。

N:小松天満宮建立が死の1年前だったことを思い出しますね。

私:遠州は小松に、じつは、この年二つの茶室を同時に建てている。一つは遠州座敷だが、もう一つはなんと利休設計の数寄屋だ。利常は遠州に心酔していながらも、利休にも傾倒している様が透けてみえないかい、作蔵君?

N:そうですよね。利常らしいというか……。ところで宗和はどうでしょうか?

私:宗和は大坂冬の陣で徳川方につく父を批判して廃嫡され、大徳寺(京都)で剃髪した。

N:精神性は、遠州と同じで、禅宗だったのですね。

  • 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋