(12)普遍性を求めて
私:この3日間の議論を通じて、作蔵君は、時代を貫く普遍性を感じ取ってくれただろうか? 視点についても、国内のみの視点ではなくて、世界史的な視点でものを見る重要性を、信長・利休を通して感じ取れただろうか?
N:キリスト教で戦国を終わらせると決意したことでしょ。そしてまた信長・利休の野心的な見直し論に、「古九谷」を絡ませ、全体を通して、前田三代の文化立国をとても大きなスケールの歴史観で論じてもらいました。
私:国内的視点だけでは、ピンぼけになりがちだし、特殊性につい目がいきがちになる。特殊性と言えばかっこはいいが、自分は他者と違うという違いを中心にものを考えていると、どんどん自分が小さくなっていく。
N:住んでいる世界が小さいとそうなりがちですものね。
私:大きくなっていく人は普遍性を中心にものを見ている。共通原理の発見というか……。凄いけど、あ、それ一緒だ。それならこうもできるし、ああもできるし、自分もできる……、という感じでね。
N:原稿は出版されるのですか?
私:幻冬舎からね。地元のほとんどの人は「古九谷」の本として読み、自分の考えとの違いを中心にして批判が多いかもしれないね。あ! これも話しておこうかな? 原稿ははじめ「世界の中心で西野鉄郎を叫ぶ」で書いていた。しかし西野鉄郎を叫んだところは、不思議と、何回かの推敲のなかで消えていった。推敲を重ねた原稿を読みながら、不思議な感覚に襲われた。
N:不思議な感覚?
私:「こいつ、すげえや。この話、どんな展開するんだろう?」。自分の文章を読みながら、こう思えて来たんだ。
N:へえ。神が書かせるのですか?
私:いや、違う。自分が書いている。金平糖のようなトゲトゲしたものを初めは書いていた。懸命に西野鉄郎を叫びながらね。しかし、そのトゲトゲ(西野鉄郎)を、削りにけずって、まんまるくする。推敲とはそういう行為なんじゃないかな?
N:トゲトゲとは個性(自我)のことですか?
私:そうだね。そのトゲトゲが価値を持つのは、まんまるの状態にして、そのまんまるをふたたびトゲトゲにしたときのトゲトゲだ。
N:トゲトゲ→まんまる→トゲトゲですか?
私:あるいはまんまるのなかに残る何かしらのトゲトゲのようなもの。個性がないかといえば、あるような……。
N:ほお。
私:まあ、誰がつくったのかわからならなくなるまで、まんまるにする。それが創作の第一歩だった。そうそう、ピカソを例に取ろう。ピカソは素描を事細かにやって、そしてキュービズムに取り掛かる。つまりそれは、まんまるにしてから、そのまんまるに楔を打ち込むことではないか?
N:まずまんまるにできることですね? 自分が書いたものが、誰が書いたのかわからないレベルにまでまんまるにできるか? そのレベルに達しなければ、読者を持てない。そういうことでしょうか?
私:プロは楔を打ち込める。残念ながら、そのレベルに原稿は達しなかったが、まんまるにはできたかな? そのまんまるのままで、どこかに微かでも西野鉄郎が残っていて、「古九谷」を叫んでいればいいなあ。
私:じゃあ、これで終わろうかあ。
N;はい。この3日間は塾のときの幸せな時間を思い出しました。ありがとうございました。また夏、帰ってきます。先生、お元気で。
- 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋