利治の「古九谷」
N:ここまでの話で、利治の開窯も閉窯も明らかになりましたが、では、本藩の下請けから脱却した利治の独自の「古九谷」構想とはどのようなものだったのでしょうか?
私:利治は「古九谷」を売ろうとした。殖産興業としての「古九谷」、つまり産業としての「古九谷」を目指したのだ。
N:利常には売るという発想がありませんものね。でも成功しなかったですよね?
私:利治の開窯は1653年。利治の死亡(閉窯)は1660年。つまり利治の「古九谷」はわずかに8年なのだ。もう少し時間があれば……。
N:東インド会社路線は継続しましたか?
私:もちろん。角福があり、中国人のいる「古九谷」は東インド会社路線の残滓だ。
N:では利常路線も継続しましたか?
私:もちろんだ。端皿がこの時期のメインだ。
N:最後に角福についてまとめてもらえますか?
私:利常も利治もこう考えていただろう。角福は対外的には輸出品で、国内的には九谷の「自信」と「誇り」の表れだと。つまり、利治には憧れの中国のものに近づけた誇りと生産体制が整った自信の表れが角福だったろう。
- 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋