古九谷を追う&古九谷を残す

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鷹峰の天才(1)本阿弥光悦

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私:いよいよ「古九谷」は誰がつくったか? その問題を語ろう。大胆に推理すれば、利政人脈だと思っている。利政の「古九谷」人脈は「鷹峰」人脈(本阿弥光悦俵屋宗達など)だ。

N:鷹峰とは?

私:大坂の陣の後、光悦は家康から8万坪を拝領して、一族縁者とともに鷹峰に居を構えた。光悦を慕う町衆、職人なども移り住んだ。鷹峰は今の京都市北区にある。本阿弥家はもともと刀剣の砥ぎと拭いと鑑定の名家で、光悦の父(光二)は利家から知行(200石)を与えられている。

N:光悦といえば琳派です。前田家は人材に恵まれましたね。

私:光悦は国宝を3点も生む。楽焼白片身変茶碗(銘「不二山」)、舟橋蒔絵硯箱、古今和歌集第十二残巻(本阿弥切本)。重要文化財(陶器、書跡、蒔絵)は数しれず。

N:鷹峰に移住したのはいくつですか?

私:57歳。79歳まで鷹峰で活動した。

N:誰が光悦に「古九谷」の手ほどきをしたのでしょうか?

私:手ほどきは楽焼の2代目楽常慶がした。国産の焼き物の国宝指定は2点のみだが、その1点が光悦だ。

N:茶の師は誰ですか?

私:古田織部(利休弟子)。大坂夏の陣の後、家康は織部が豊臣方と内通したかどで切腹させるが、それに光悦も連座して、家康に鷹峰へと追放されたのだ。

N:光悦といえば書でしょう?

私:光悦が生涯打ち込んだのは書だ。絵の上に和歌を書くその形式を光悦は発明した。最高傑作は「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」で、宗達が絵を描き、光悦が和歌を書く。奇跡のコラボだ。

N:どの「古九谷」が光悦ですか?

私:「畦道文角皿」。後ほどあらためて作品紹介をする。

 

●古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋