古九谷を追う&古九谷を残す

週1くらいの更新になります

ニュー利長(1)家康を屈服させた利長&右近

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私:さてここからは新しい利長像を語ろう。

N:元気のでる利長像をお願いします。

私:利長を過小評価するのはやめよう。石高は実力のバロメーターで、利家83万石に対して利長は120万石ある。

N:ドラマの影響でしょうが、利長は豊臣家も母も捨てたでしょう?

私:利長は、死ぬまで、主家は豊臣家で、だから羽柴肥前守利長と名乗り続けた。

N:母は?

私:利長は家康を屈服させた。

N:まさか!

私:家康による加賀征伐はあったかい? なかっただろ。利長は家康を和議に持ち込んだが、しかし上杉景勝直江兼続)は和議に持ち込めなかった……。

N:で、母は?

私:人質とは戦が始まる「前」にする約束の担保だ。つまり裏切りをさせないための担保が人質なのだ。だとすると、まつの江戸下向は加賀征伐の人質ではなく、上杉征伐の人質のはずだろ? なぜならまつの江戸下向は上杉征伐の直「前」なのだから。

N:たしかにそうですね。

私:まつの江戸下向は家康が加賀征伐を断念した「後」の話で、決して加賀征伐の「前」の話ではない。

N:ではなぜまつは江戸に?

私:「豊臣公儀」の人質としてまつが江戸に下向する。それは家康と利長の和議の落とし所だったのだろう。利長は「豊臣公儀の人質」として、五大老の先頭を切り範を垂れたのだ。それゆえに家康は加賀征伐を断念せざるを得なかった。つまり、利長は家康に決して屈服したわけでもないし、母を捨てたわけでもないのだ。

N:豊臣公儀の人質の証拠はあるのですか?

私:豊臣奉行から浜松城主宛ての書状が残る。「まつが江戸下向で一泊する。賄いの品を同行の二人に渡せ」。

 

●古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋