(6)「古九谷」の何が真に素晴らしいのか?
N:よくわかりました。では次ですが、今私が一番知りたいことを質問します。一体全体「古九谷」の何が真に素晴らしいのでしょうか?
私:私には「牡丹」(東博)が印象派の油絵に見える。ある時、印象派以前の油絵をまとめてみて、とても古臭くて驚いた。
N:「古九谷」は古臭くないのですよね?
私:いいものはね、いつまで経っても新しいんだよ。
N:でもそれはなぜなのでしょうか?
私:いいものは人を感動させる力があるからだな。
N:その感動させる力とは一体何なのでしょうか?
私:感動させる力とは、作品が異なる時代を生き抜く力のことで、作品に美があれば、いついかなる時代であっても、作品は人々に感動を与えることができるんだ。そしてそれゆえに絶賛されるんだ。
N:それはおかしくありませんか? ゴッホは……。
私:マティスはまだ無名だったゴッホの作品を絶賛している。マティスは、ゴッホ作品を通して、「平面構成」と「色のハーモニー」の親和性に気づいたのだ。ふたたび「牡丹」に話を戻せば、自分が生きていない江戸という時代を作品に発見できなければ、鑑賞者は真には感動できず、それゆえ絶賛はしないのだ。武腰潤氏は「牡丹」の線を「武士の線」と言っている。ということは、武腰氏には「牡丹」に江戸時代の武士が見えているんだ。
N:わかるような……、わからないような……。
私:ではこういおう。表現には時代が反映される。世相といっていいかな? そういう表現をアートという。文学作品の話ならわかりやすい。われわれはもののあはれの平安時代の文学作品『源氏物語』を読みながら、平安時代をさも現代のように、あるいは平安時代を現代に置き換えて読み、感動している。平安の貴族社会がしっかり書き込まれているがゆえにわれわれは感動できるのだ。
N:なるほどなあ。これまでの話は鑑賞者と感動の話でしたよね。では制作者と感動の話は、どういうふうに考えればいいのでしょうか?
私:制作者は表現する喜びに溢れているか? そこが一番だな。「牡丹」は、生地を山辺田窯(伊万里)から持ち込んで、加賀で絵付けしたものだろう。当時生地は1枚100万も200万もしただろう。生地に絵が描ける! その絵師の喜びと責任たるや、どんなものか、作蔵君、想像できるだろ?
N:言われてみれば、今回の先生の信長や利休についての話ぶりは、得意満面でした。また利長に同情を寄せているようでしたし、なにより利常を捉えようと挑んでいる姿勢をとても好ましく感じました。
私:作蔵君、それが感動だよ。鑑賞者の心が感動で揺さぶられるのは、制作者の心が鑑賞者に透けてみえてはじめて起こるんだ。一方、制作者の話だが、制作者は責任ゆえに緊張する。そして、自らに規律を課し、その自己規律を守ることではじめて、作品に品格がにじみ出てくるんだ。
N:先生、しかし、そもそも「古九谷」以降の九谷焼が「古九谷」うんぬんといった時点で、二番煎じ感があります。感動は二番煎じからは生まれません。織部にさえ利休の二番煎じ感があり、利休ほどの知名度を勝ち得ていないのはそのためです。
私:作蔵君の美における価値観は、新しいものこそが美だとする価値観なのかな? しかし、美の核心は、作品がいつまでも瑞々(みずみず)しいか? 作品が鑑賞者ばかりか制作者の心を洗うか、だよ。
N:わかるような……、わからないような……。
私:いい作品の前に立つと、自分が消えるんだ。得も言えぬ時間が流れ、そして我に返るんだ。そうそう、伊之助作品はモダンだが、作蔵君、昭和を感じないかい?
N:先生、私は平成生まれですよ。
私:当時は世界の中の日本という言い方をよくしたんだけれどね、日本が世界に飛躍したのが昭和という時代で、洋画家が「古九谷」を描いたんだよ。江戸時代には武士であったようにね。まさしく時代の風なんだよ。だからアートなんだ。利休の茶碗(髑髏)には戦国時代の風が吹いていたのと同じなんだよ。
N:ところで、現代は、絵も活字(2次元)も、映像・動画(3次元)によって置き換わる時代です。「古九谷」など古臭い。時代遅れもいいころだ。そういう見解に、先生は何と答えますか?
私:武腰氏も伊之助も「古九谷」が道しるべとなった。つまり、心に「古九谷」が住んだんだ。心に作品が住まないのなら、それは感動とはいえないし、同時にまた、作品と対話がくり返されなければ、それもまた感動とはいえない。つまり、絵画が2次元の世界で、映像を3次元の世界だと捉えるなら、感動は4次元の世界の話で、作品は4次元として誰しもに認められなければ、消えていく運命にあるだけなんだ。
- 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋