(2)改めて後水尾天皇の「文化サロン」とは?
N:改めて後水尾天皇の「文化サロン」を教えてください。
私:江戸幕府が日本を支配し、平和な時代が到来して、寛永文化が花開く。京都では対徳川を意識して後水尾天皇がその文化の中心になり、朝廷に「文化サロン」ができる。身分にとらわれなかったために、いろいろな文化グループが活発に交流していた。鷹峰人脈も参加していた。前田家ゆかりの茶人(遠州、宗旦、宗和)や絵師(探幽)、光悦や宗達はもちろんだ。利政(利家次男)も参加した。利政の娘の嫁ぎ先の角倉などの豪商や公家も参加していた。
N:サロンのスポンサーは誰でしょうか?
私:利常だな。なによりも利常の宮家への行き届いた財政支援が見逃せない。利常の資金援助が「文化サロン」を支えていた。
私:しかし利常は「公家」の文化にのめり込まず、「武家」の文化の本領は忘れなかった。一方で天皇を圧迫する徳川へは強い反発があった。ともかく利常は南北朝以前の天皇を中心とする文化国家に強い憧れを抱いた。
N:利常は天皇の文化と武家の文化をどちらも並び立つようにしたのですね。
私:天皇の文化と武家文化。利常は二つの文化をハーモニーさせたことで、京での「寛永文化」のスポンサーとして、一躍世に出たのである。「古九谷」も、当然、その流れの中にある。
- 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋
利常を見直そう(1)勤王の顔
私:今度は利常を追おう。利常のコアに迫りたい。利常は、信長や利休と違い、平和な世(元和偃武)を生きた。豊臣か? 徳川か? キリスト教か? 天神信仰か? 利常には、じつは、次第に小さなことになっていった。
N:そうなのですか?。
私:時代が利常をそうさせたのだ。
N:では何が大きかったのでしょう?
私:天皇だな。
N:意外なところに話が飛びましたね。
私:天皇が日本の文化を支えてきた。天皇が日本の美意識を支えてきた。利常は後水尾天皇の「文化サロン」に参加して、そのことを自覚した。日本の歴史を省みると、南北朝時代以前は、天皇に権力が集中していて、天皇の時代には文化の大輪が咲いた。古墳文化も飛鳥文化も奈良文化も、そして平安文化も天皇の文化だ。
N:大仙陵古墳(仁徳天皇陵)も法隆寺も東大寺の大仏も、そして平等院鳳凰堂もですね。
私:古事記も日本書紀も源氏物語もある。勅撰和歌集もある。しかるに武士の文化(鎌倉文化・室町文化)は、天皇のときの豊穣な文化と比べてどうだ? 天皇の文化の綺羅びやかさに比べれば、武家の文化はたかが知れている。
- 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋
(9)利休の子孫たち
私:しかし、時間がたてば、2人の天才にも差がついてくる。人気は信長が利休をはるかに凌ぐ。
N:信長と利休、2人の天才につく差とは?
私:今、信長の家系はどうなっている? 利休の家系は?
N:利休の家系は、表千家、裏千家、武者小路千家となり、続いていますが、信長の家系は知りません。
私:ほら、そこだよ。差は子孫の差となって現れるんだ。
N:子孫の差……。
私:人はいずれ忘れ去られる。あらゆるものが忘れ去られる。しかし文化遺産は時空を超える。茶という文化遺産が家元制度とともに残ったのだ。新たな世にも利休の子孫たちが活躍していることを私は切に願っている。
- 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋
(8)キリスト教で戦国時代を終わらせる
私:信長と利休、この2人はとても眩しい。日本歴史史上屈指の人物だ。秀吉や家康にしろ、清盛や頼朝にしろ、彼らは覇権争いの勝者であるに過ぎない。
N:宗教があるか? 宗教がないか? それが違いということですか?
私:武力では人心を支配できない。人心を支配できるのは宗教だ。つまり人心に着目したのが信長と利休の偉さだ。
N:信長と利休のどこが真に偉いのか? かなりわかってきましたが……。
私:戦国時代、信長と利休、この2人だけが、キリスト教の真価に気づいた。キリスト教で天下を統一し、戦国の世を終わらせることができると気づいたのは、ただ信長と利休、この2人だけだった。信長は新国家建設に邁進し、明けても暮れても、その戦いの中に身をおいた。そして信長は政治権力と宗教を一体化させて、キリスト教帝国主義に対抗しようとしたのだ。
- 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋
秀吉の利休切腹の真意
N:このような利休をいったい誰が理解できたでしょうか? 信長だけでしょうね。
私:秀吉は理解した。
N:え!
私:しかし、秀吉は理解したがゆえに利休に切腹を命じた。
N:え!
私:利休切腹と秀吉の禁教令の時系列を確認すれば、利休切腹は1591年。右近が秀吉の禁教令で金沢に来たのは1588年。
N:秀吉は禁教令を発布するが、利休は棄教しない。ゆえに切腹を命じたということですかね。時系列的には合っていますね。
私:利休は秀吉に絶望していたのではないか? 利休はキリスト教を茶の道にとりいれ、キリスト教をベースにした信長の「天下布武」実現のために、来る日も来る日も茶をたて、信長家臣団
を壮行していた。しかし権力者、あの秀吉を見ろ! 利休は秀吉に絶望して、自ら進んで殉教者の道を歩み、イエス・キリストになろうとしたのだ。
- 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋
秀吉の利休切腹の真意
N:このような利休をいったい誰が理解できたでしょうか? 信長だけでしょうね。
私:秀吉は理解した。
N:え!
私:しかし、秀吉は理解したがゆえに利休に切腹を命じた。
N:え!
私:利休切腹と秀吉の禁教令の時系列を確認すれば、利休切腹は1591年。右近が秀吉の禁教令で金沢に来たのは1588年。
N:秀吉は禁教令を発布するが、利休は棄教しない。ゆえに切腹を命じたということですかね。時系列的には合っていますね。
私:利休は秀吉に絶望していたのではないか? 利休はキリスト教を茶の道にとりいれ、キリスト教をベースにした信長の「天下布武」実現のために、来る日も来る日も茶をたて、信長家臣団を壮行していた。しかし権力者、あの秀吉を見ろ! 利休は秀吉に絶望して、自ら進んで殉教者の道を歩み、イエス・キリストになろうとしたのだ。
- 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋
(6)切腹の儀式
N:利休の理解がぐんと進みました。
私:利休は「一期一会」をさらに「切腹の儀式」にまで昇華させた。
N:ほんとですか?
私:利休は十字架に磔にされるイエス・キリストの最期を、切腹の儀式で表現した。
N:所作? 茶道具?
私:茶杓は短刀であり、共筒はその鞘。そして鬼桶水差は首桶。風炉は……、茶筅は……、香合は……。
N:……。
私:利休は儀礼にのっとり切腹した。利休の魂は高潔であるがゆえに秀吉との妥協を許さなかった。した。そして利休は殉死することでイエス・キリストになろうとしたのだ。
N:今の茶道にそういうイメージはありませんよね。
私:利休の子孫たちは新しい時代の子として、あるいは新しい空間の子として、新しい茶を発明してきたからだ。だから利休の茶が茶道として連綿と伝えられているのだ。伝統とは再発明で、再発明できない伝統は消えていくのだ。
- 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋
(5)そもそも利休の茶碗は髑髏なのか?
N:しかし利休はほんとうに茶碗を信長の髑髏盃から着想を得たのでしょうか?
私:いまの陶芸家の「茶碗」をみても、利休の髑髏(シャレコウベ)は想起できない。なぜか? 利休の子孫たちや楽の子孫たちが茶碗を再発明したからだ。つまり、利休のとんがった「天才」を、万人が享受できるように、子孫は新しい茶碗を再発明したわけだ。
N:なぜ髑髏(シャレコウベ)なのかの説明になっていませんが……。
私:もともと利休は中国の雑器を抹茶茶碗と見立てた。それには歪みがあり、鉄粉が混じる。それを景色に昇華させた。そして当時の茶碗には呑口に刷毛跡を残しているものがある。髑髏(シャレコウベ)だとわかってもらえただろうか?
N:わかりません。
私:頭蓋骨だから髪の毛がある。刷毛跡は髪の毛なのだ。
- 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋
(4)利休は、信長同様、キリスト教を選んだ
N:でもお茶(抹茶)はもともとは仏教の世界の話でしょう? どうして仏教じゃなくてキリスト教に話が飛ぶのでしょう?
私:最澄や空海のときは固形の茶(団茶)だった。栄西(臨済宗)のときに抹茶が伝わる。道元(曹洞宗)のときに茶礼が制定される。しかし茶の歴史をどれだけ語ろうが、利休は仏教を範としなかった。
N:なぜ?
私:そもそもが茶碗は茶の碗だ。あの天目茶碗でも、茶を入れ、湯を注ぎ、かき混ぜて飲んだ。しかも高位の仏僧は仏舎利(釈迦の遺灰)に見立てて茶を飲んだ。
N:仏舎利!?
私:聖なる気持ち、聖なる儀式は東西変わらない。
N:では利休は、なぜ、仏教を範としなかったのでしょうか?
私:仏教では戦国の世は終わらぬ。キリスト教でなければ戦国の世は平和にならぬ。利休はそれに気づいたのだ。だから利休が範を求めたのはキリスト教とイエス・キリストだったのだ。
- 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋
(3)髑髏盃でキリストの血を飲む
私:そして信長の髑髏(シャレコウベ)が利休の茶碗に蘇る。
N:利休の茶碗は信長の髑髏ですか? そうだとすると、キリストのワイングラスが利休の髑髏(茶碗)になるということなのでしょうか?
私:そう。そしてキリストのワインが利休の抹茶となる。
N:まさかの信長の髑髏!
私:利休は髑髏(茶碗)で聖人(殉教者イエス・キリスト)の血(抹茶)を飲む。
N:イエス・キリストが最後の晩餐でワイングラスを取る。「これわが血なり」といい、ワインを弟子たちに分け与えた。このことですね? 血とはワインレッドですね。
私:欧州では貴族の血は青い。アメリカでもblue blooded familyといえば「名門」の意味だ。
N:西洋だけでしょう?
私:中国では忠義のために死んだ人の血は3年経つと碧くなるという。それを碧血というが、日本にも「碧血碑」がある。その碑に祀られるある人物は今でもファンクラブがある。
N:誰だろう?
私:土方歳三だな。碧血碑は箱館戦争の旧幕府軍の戦死者(800人)を祀る。
N:何の話でしたっけ? あ、ワインレッドだ。
私:レッドではなくブルー(グリーン)。ブルー(グリーン)は緑で、抹茶だ。利休はほどよく泡立つ血をイメージして抹茶を選び、茶碗(髑髏)でキリストの血(抹茶)を飲む。
N:茶の「一期一会」にイエス・キリストの「最後の晩餐」のイメージが、完璧に被ってきました。これまでの話を整理すると次のようになりますが、正しいでしょうか? キリスト教のミサに着想を得て、利休が茶道を発明する。イエス・キリスト:利休。最後の晩餐:陣幕の茶会。食堂:茶室。ワイングラス:髑髏。ワイン:抹茶。キリストの血:碧血。レッド:緑。
私:うまくまとめたね。そのイメージで利休は「茶道」を造形したのだ。
- 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋
(2)利休の「茶室」はキリストの囚われた監獄
N:では利休は何を発明したのでしょうか?
私:利休は草庵の茶(客と亭主が一座を建立する座敷の茶)を大成した。はやい話が茶を飲むのに「茶室」を設けたわけだ。
N:キリストの「最後の晩餐」は「食堂」でワインでしたね。ところで利休はミサを茶室にどう取り入れたのか教えてください。
私:利休の「待庵」(国宝)にはにじり口があり、わずか二畳だ。
N:「狭き門より入れ」でしょうか?
私:利休の国宝「待庵」はイエス・キリストが囚われた薄暗い「牢獄」だ。
N:おおおお!
私:格子の入った小さな窓は牢獄の鉄格子だ。またゴルゴダの丘(キリストが十字架に架けられたエルサレムの丘)の石畳は網代板で、「待庵」と書院をつなぐ縁にある。
- 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋
利休を見直そう(1) 「一期一会」と「最後の晩餐」
私:さて利休の茶だが、利休の茶は戦国の荒ぶる魂を鎮める。陣幕での茶会は「一期一会」となる。茶会は必勝を誓いもするが、この世での「別れの儀式」、「死への旅立ちの儀式」でもある。
N:それが利休の茶のほんとうの意味なのですか?
私:西洋では茶がワインなのだ。
N:「最後の晩餐」ということなのでしょうか?
私:そうだな。キリストは処刑される前夜、12使徒と最後の晩餐でワインを飲む。
N:西洋はワインでの「一期一会」ということですね。
私:利休は茶の湯にキリスト教を組み込む。そしてキリスト教の儀式を戦国化する。つまり利休はミサから着想を得て、茶の湯を変え、新たに茶道を発明したのだ。
- 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋
「古九谷」と吉田屋 鼠生地と半磁器
私:1824年に吉田屋窯は九谷で開窯する。「古九谷」の再興を試みたのだ。ところで、吉田屋は「再興九谷の雄」とされる。では、どうして「再興古九谷の雄」とはいわれないのだろうか?
N:なぜでしょう?ら?
私:「古九谷」の生地さえつくる技術はなかったからだ。
N:鼠生地がつくれなかったのですか?
私:吉田屋は、憧れの「古九谷」を再興するために、「古九谷」発祥の地で窯を開いた。しかし九谷村は雪深く、奥深い。吉田屋は、2年後、なにかにつけ不便な九谷村から山代に窯を移した。その移窯のせいもあるのだろう? 生地は半磁器になる。
N:半磁器とは?
私:石(磁石)に土(陶土)が混ざる。「古九谷」の鼠生地をつくる技術はもはや加賀にはなかったのだ。
N:鼠生地でなければ「古九谷」は無理でしょう!
私:吉田屋の半磁器では発色が劣る。もちろん絵の具がよくなくても発色が劣る。とにもかくにも私は吉田屋に「色のハーモニー」を感じたことがない。だから吉田屋を「再興九谷の雄」とは呼ぶが、「再興古九谷の雄」とはいわないのではないかと思っている。しかし「青手(塗埋手)」は生地を塗り埋める。吉田屋窯は「青手(塗埋手)古九谷」の再興にあったのだろう。
私:ここらでトイレタイム。リフレッシュしようか?
- 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋