古九谷を追う&古九谷を残す

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(4)利常の「古九谷」は陣羽織

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私:さあいよいよ約束の芸術的なアプローチで「古九谷」を語る時が来たね。利常は自分の好みを「古九谷」に爆発させたんだ。ある「古九谷」構想が利常に浮かんだ。「古九谷」――「陣羽織」構想だ。そう、利常の「古九谷」は陣羽織の世界なんだよ。

N:陣羽織?

私:戦場で着る羽織だな。威厳を示すためのファッションかな? 艶やかなものが好まれ、秀吉の陣羽織には目を瞠る。富士山の頂上にうんこがにょきにょきとある。

N:うんこではないでしょう?

私:噴火の神の火だけどね。とにもかくにも陣羽織には戦国武将の心意気と遊び心が爆発している。
N:陣羽織なら、誰も口出しできませんし、自分の好みで自身の世界観を打ち出すことができますものね。

私:利常の陣羽織の世界は、利休でもなく、織部でもなく、遠州でもない世界だ。信長も父も兄も着た陣羽織を、徳川の世のなかで、自分も着て戦場に向かおうと最後の戦国武将の利常は思ったのだ。

N:「古九谷」の絵柄にも陣羽織の影響もありますかね? 陣羽織にはデフォルメが似合いますね。

私:俵屋宗達が抽象化(図案化)の「時代の風」を吹かせていたこともあるね。

  • 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋

(4)利常は霙だ 

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 N:ならば利常はどうみればいいのでしょう? 先生の冷徹な目で利常を語ってくれませんか?

私:利常の立場は、前田であり、徳川である。しかし、前田であり、徳川ではないとか、あるいは前田ではなく、徳川である、ではない。

N:なんだか微妙ですね。

私:で、名乗りも、菅原であり、源である。茶人でいえば、利休や織部の魂を好みながらも、遠州にも心を寄せる。つまり、利休や織部であり、遠州でもある。

N:そういえば、利常の文化政策においても、公家文化でもあり、武家文化でもありましたものね。宗教でも、キリスト教であり、天神信仰でもありました。

私:さらにわかりやすくするために、雨と雪と霙(みぞれ)の話をしよう。雨が前田で、雪が徳川。雨が菅原で、雪が源。雨が利休や織部で、雪が遠州。雨が公家文化で、雪が武家文化。雨がキリスト教で、雪が天神信仰だ。

N:……。

私:今までの説明をくり返せば、利常の立場は、前田(雨)であり、徳川(雪)である。ということは、すなわち霙(利常)ということではないか? すなわち、霙は、雨の性質もあり、雪の性質もある。だけれども、雨ではないし、雪でもないのが霙なのだ。

N:そうかぁ。だから、前田でもあり、徳川でもあるが、しかし、前田であり、徳川でないとか、あるいは、徳川であり、前田ではないとか、そうではないのですね。なるほど利常は霙なんですね。だから、利常は今まで人の口にのぼらなかったのも、利常の霙ゆえのわかりにくさだったのですね。

私:信長は安土で「アジアのローマ」を目指した。利家は尾山(金沢)で「信長の理想郷」を目指した。兄は高岡で「右近の理想郷」を目指した。ならば、自分(利常)は…。

N:利常は何を目指したのでしょうか? 利常が、目指したもの、それは「アジアのローマ」でもなく、「信長の理想郷」でもなく、「右近の理想郷」でもなかったでしょう?

私:芸術・文化の都かな? 「アジアのバチカン」かな? 時空を超える文化「国家」を利常は目指して陣羽織を着た。文もあり、武もある芸術と文化の都として加賀藩を建立したのだ。バチカンは国(武)でありながら、カトリックの総本山(文)でもある。それが利常の加賀藩なのだ。

 

 ● 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋

(3)利家と利長を思う利常

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 私:そして利常は父(利家)を思い、兄(利長)を思った。

N:利常は利家をどう見ていたのでしょうね?

私:利家の織田家での存在は、一前線部隊の将として柴田勝家に追随する武将という立場だった。

N:まだ24万石ですものね。

私:一方豊臣政権での利家は、五大老の筆頭徳川家康と豊臣家の間を取り持つ重責を担う立場だった。

N:83万石に出世しましたからね。

私:しかし、石高は徳川にはるかに及ばず、政略家としても大した実績を残せないまま豊臣末期に世を去った。

N:冷徹に見ていますね。では後をついだ利長はどうでしょうか?

私:家康からの無理難題を乗り切るのが精一杯で、徳川と前田の狭間で右往左往しながらも、外様ながら家を全うさせることができた……。

  • 古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋

(2)利政が利常を動かす

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私:ここからはふたたび利常の心のコアに迫ろう。前にも触れたが、利常のアイデンティティーは利家だ。しかし利常は利家の子ではあるが、まつの子ではない庶子だ。しかも利常自身の権力基盤は徳川にあり、前田にはない。その徳川もいちいち難癖をつけ、あれをしろ、これをするなと命令する。これじゃ、堪ったもんじゃないと利常は思っていた。

N:大坂の陣で地に落ちた自分の評判もどうにかせにゃならん、ということもありますしね。

私:ところが、京には「寛永の文化サロン」があった。京では文化活動が身分にとらわれず、文化サークルがそれぞれに活発に交流していた。

N:鷹峰人脈との出会いが利常に明かりを灯したのでしょうか?

私:利政(異母兄)に会ったことも大きかった。

N:どう大きかったのですか?

私:利政は京に隠棲し、豪商の角倉と縁戚を結ぶ。利政は角倉の両替部門をサポートしていた。そうそう、利家はそろばんを戦場でも手放さなかったと言われるくらいの経済通だった。そのDNAを受け継いで利政は角倉の事業をさらに拡大していく。前田家の金看板も利政に有形無形の力を与えていたのだ。そして利政は財力で京の寛永の文化サロンをサポートしていた。

N:利常は驚いたでしょうね。

私:そうね。一方利常はそんな文化サロンで自由を満喫した。そして名物収集家のコレクターから名物創出のスポンサー、ひいては天皇を中心とする日本文化のスポンサーになろうと決意しだす。そして利常はすぐ行動した。利常は長崎に連絡して、「御買物師」と京から派遣した「目利き」に、金に糸目をつけず、海外の優品を収集させた。そしてそれらは加賀の職人たちの手本となり見本となった。つまり利常はコレクターからイノベーターに変身したのだ。「百万石文化」はほどなく花開いた。

N:利常の唯一の自己実現の場だったのでしょうね?

私:やんちゃなバサラのあんちゃんは、家康から文化立藩を指令されたことを逆手に取った。資金はうなるほどある。

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エンディング(1)利常は「古九谷」を陣頭指揮する

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N:そうなるとプロデューサーの問題はどうなりますか? 遠州はアドバイザー&コーディネーター以上の存在になりませんか?

私:たしかにそうなのだが、利休の茶室の件から考えてみても、利常は「古九谷」は一人利常のみの関与の意識ではなかったか? 利常は何から何まで人まかせにできない性格であったようなのだが……。

N:そういう人っていますよね。

私:利常はつねに陣頭で指揮した。那谷寺プロジェクトでも利常は書院に住み込み、自ら現場で指揮をしているのだ。

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(7)利常と茶人たちとの距離

 

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私:もう「茶人を見直そう」を締めくくろう。利常が茶人たちをどう見ていたかのか? 利常の評価基準に基づいて、3人の茶人たちを改めて語り直そう。

N:利常の基準は何だったのでしょうか?

私:利常の評価基準は「魂」であり、利常が好んだのは、利家や信長や利休そして利長や右近の魂であったろう。 

N:利常のアイデンティティーは利家で、利家のアイデンティティーは信長だからですか?

私:魂ある生き方には心を打つ物語が必ずある。利休にはたしかにある。では織部にはあるのか? 遠州にあるのか? 織部には物語がある。秀吉から師の利休は京を追放される。淀の船着場での見送りは、秀吉を憚り、織部と細川三斎のみ。利休は最後の茶会に用いた手作りの茶杓織部と三斎に与える。織部に与えられた茶杓は「泪」と命名される。長方形の窓をあけた漆塗りの筒をつくり、その窓を通して茶杓を位牌代わりに織部は拝んだ。

N:遠州には?

私:遠州にあるのはエピソードぐらいのものかな。

N:織部の物語は殉死で幕を下ろすのでキリシタンです。

私:織部は豊臣家と徳川家の平和共存を家康に2度も直接訴える。その結果、織部切腹と一家断絶に遭う。

N:遠州は?

私:秀吉が死ぬと、豊臣から徳川へ乗り換えている。義父(藤堂高虎)の強い勧めによる。

N:高虎は日本一の世渡り名人で、大坂の陣では豊臣の金蔵を急襲した人物ですね。

私:利常は遠州が一番付き合いやすかっただろう。人的環境において、利常は遠州との相似を感じていた。つまり、遠州も利常も、自分を超える力に導かれて、徳川の権力構造のなかで生きる相似性をお互い感じていたのだ。

N:遠州の「魂」は好まなかったということですか?

私:どうだろうなあ。それはともかく遠州と利常は15歳違う。一回り以上遠州が年上で、

利常は遠州に憧れていた。

N:そうなのですか?

私:遠州は日本のレオナルド・ダ・ビンチといわれるほど多彩で、美における先駆者として、利常は遠州を師ともお手本ともしていたのだ。

N:要は肉を喰らい、骨をしゃぶるように、利常は遠州を血や肉としたのですね。ということは利常は遠州に心酔していたのですかね。 

私:遠州の茶室といえば、長流亭や擁翠亭は有名だが、加賀藩邸(本郷)にも隠居所の小松城にも「遠州座敷」があった。とくに加賀藩邸の遠州座敷は幕府の大老や他藩の大名の垂涎の的だった。しかしことを複雑にしているのは小松城の遠州座敷だ。利常の心の底が垣間見て取れる。小松城のそれは死の5、6年前で、小松隠居から12年後のこと。

N:小松天満宮建立が死の1年前だったことを思い出しますね。

私:遠州は小松に、じつは、この年二つの茶室を同時に建てている。一つは遠州座敷だが、もう一つはなんと利休設計の数寄屋だ。利常は遠州に心酔していながらも、利休にも傾倒している様が透けてみえないかい、作蔵君?

N:そうですよね。利常らしいというか……。ところで宗和はどうでしょうか?

私:宗和は大坂冬の陣で徳川方につく父を批判して廃嫡され、大徳寺(京都)で剃髪した。

N:精神性は、遠州と同じで、禅宗だったのですね。

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(6)小堀遠州はキリシタンか

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私:さてここからは遠州はプロデューサーか? それに答えを出そう。

N:遠州がプロデューサーでないとすれば、遠州は何になるんでしょうか?

私:アドバイザー&コーディネーターかな。もしそうなら、遠州は単なる茶の職人だということになるね。・

N:じつは利休の話を聞いてから、キリシタンであるかないかが、事の核心だと思うようになりました。つまり遠州キリシタンかどうかが、すべての核心でしょう。

私:では遠州に利休的なものがあるのか? 

N:遠州の茶の師は織部のはずです。織部は利休と同じく殉死していますが、しかし遠州は殉死していません。ですから遠州キリシタンではないのでは?

私:そうなるよな。利常がキリスト教から離れたように、遠州も師の織部から離れ、キリスト教からも離れたんだ。

N:棄教した証拠はありますか?

私:そもそも遠州キリシタンであったという証拠はない。だから棄教した証拠はないが、『宗甫公(遠州)古織へ御尋書』がある。遠州の心の中が垣間見える。織部とは大坂の陣の前にすでに距離を置いているのだ。織部切腹で光悦が鷹峰送りになるが、遠州には何のお咎めもない。しかも1623年からは有能な行政官だったのだろう。遠州は幕府の役職についている。

N:役職? 

私:伏見奉行だ。幕府から伏見奉行を仰せつかるくらいだから、キリシタンなわけはない。利常と遠州の絡みの話は数多く伝わるが、しかし、利常は遠州に心酔したかどうかだな。

N:「古九谷」のプロデューサーといっても、実質、アドバイザー&コーディネーターくらいのものでしょ? でもそれなら、遠州は茶人として何に精神性を置いたのでしょうか?

私:禅宗に心を寄せていた。少年時代から大徳寺で禅を学んでいるからな。そもそも茶の湯禅宗を広める手段であったことから、禅宗と茶人の結びつきは深いのだ。

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(5)小堀遠州と綺麗さび

 

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私:次は遠州の美意識に移ろう。遠州は「古九谷」の作風を決定づけた。その作風を綺麗さびという。

N:綺麗さびとはどういう作風なのでしょう?

私:わびさびから脱却して誰からも美しいといわれる美が綺麗さびで、その美をさらに誰もが驚嘆する美へと「古九谷」作家は昇華させている。そうそう、「綺麗」は後水尾天皇の「文化サロン」でできた言葉なのだ。

N:そうなのですか。綺麗さびについて、もう少し詳しく説明してくださいませんか?

私:茶人の好みを一言で表すなら、利休の黒、織部の緑、遠州の「白」となる。遠州の白とは磁器のこと。利休も織部も陶器で、磁器ではなかった。そして遠州は綺麗さびの茶風を発明する。

N:遠州の綺麗さびの茶風とは?

私:遠州の茶は「武家茶道」で、大名の交際際儀礼(もてなし)の必須の教養となる。遠州は、茶人でありながら、大名でもあり、あるいはまた大名でありながらも、茶人であったので、遠州織部の茶をさらに武家好みにしたともいえる。ともあれ遠州の時代は利休や織部と違い、「元和偃武」の平和な世なのだ。

N:遠州の茶には平和な時代の風が吹いているのですね。

私:茶室は明るい。見た目が美しい(わびさびから脱却した)白い磁器が明るい茶室に映える。「綺麗!」(今ならかわいい!)と誰もが驚嘆する美が綺麗さびなのだ。そして

「古九谷」には綺麗さびの世界は広がっている。

 

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(4)小堀遠州

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私:宗和に引き続いて、小堀遠州を語ろう。前田家と小堀家の親密な関係は、前にも述べたが、遠州没後に前田家は甥と孫を召抱えているくらいだ。では遠州はほんとうに「古九谷」のプロデューサーなのか?

N:そこですよね、問題は。ここまでの先生の話の展開では、プロデューサーとは茶人で、利常は「芸術を利休の茶事の世界の完遂」と考えている。だから、プロデューサーを茶人としてきたのでしたね。

私:ざっと遠州を紹介すると、遠州は日本のレオナルド・ダ・ビンチと呼ばれることがある。それくらい芸術的なセンスが光り、守備範囲も広く、茶の湯、作事、作庭、華道、七宝に及ぶ。まつの芳春院(京都)や長流亭(重文・大聖寺所)は前田家ゆかりだ。

N:遠州の茶室といえば、海外の日本通にも、擁翠亭は有名です。

私:13も窓があれば、そりゃ驚くわな。

N:キリストの囚えられた薄暗い牢獄とは違いますが……。

私:擁翠亭はいまは鷹峰にあるが、当初は前田家の家臣の後藤覚乗(金工師)の屋敷にあった。しかし子孫が千家好みではないという理由で他に譲渡した。

N:その子孫、利休を理解していますね。

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(3)金森宗和

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私:次は金森宗和を語ろう。宗和は野々村仁清(京焼色絵の祖)の御室窯をプロデュースした人物で、仁清を色絵の世界に導いた。県美の第1展示室には国宝の「雉香炉」と重文「雌雉香炉」のみが常設展示されている。

N:いいものが県美にありますが、何か理由でもあるのでしょうか?

私:長男から金森家は代々加賀藩に茶頭として仕えていたからだ。

N:仁清は「古九谷」をつくっていますね。

私:仁清は土もの(陶器)。たとえば国宝の雉。緑色が全面に使われているので、一見すると「古九谷」風だが、赤遣いが「古九谷」と異なる。そうそう、おもしろい話が京極家(丸亀藩)にある。国宝の「色絵藤花茶壺」(MOA美術館)など、仁清の茶壺が複数伝来しているが、それらは一度も使われなかったという。それらは藩主の「好み」に合わなかったらしい。

N:「好み」

N:茶人が仁清の豪華な色遣いを好むでしょうか?

私:宗和は「古九谷」風の色遣いを好んではいない。

N:え!

私:仁清が派手ともいえる色遣いになったのは宗和没後からだ。宗和がプロデュースした仁清の作品は、「古九谷」の色絵磁器の世界ではない。丸亀藩の国宝の茶壺も宗和没後の作だ。

N:当初、金森宗和は3期「古九谷」のプロデューサーの位置づけでしたが、詳細に検討すると、そうではないという結論ではありませんか?。

私:そうなるね。

N:小堀遠州も「古九谷」のプロデューサーであるかどうか? あらためて検討したほうがよさそうですね。

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(2)茶人 古田織部

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 私:さて、茶人の織部を語ろう。織部は漫画『へうげもの』(山田芳裕)で一躍世間に知られるところとなる。作蔵君は読んだかな?

N:はい。織部に限らずどの登場人物も欲があり、人間臭くて、司馬遼太郎の『国盗り物語』のようでした。

私:ほお。利休の茶の湯織部へと受け継がれた。織部もまた権力者家康から切腹を命ぜられ殉死する。しかし織部織部焼はやがて「古九谷」の緑釉に蘇る。

N:緑釉に蘇る?

私:織部の緑釉は抹茶の色でもあり、のだ。織部の緑釉は「古九谷」の「青手(塗埋手)」として蘇る。

N:それならあの歪んだ形もシャレコウベなのでしょうか?

私:そうだね。馬に蹴られた髑髏かもしれないなあ。そうとでも思わなければ、あの斬新で奇抜な形はわからないが、南蛮の匂いがする。

N:織部と信長は接点がありましたか?

私:16歳で織田信長桶狭間の戦いに使番として仕官して、以来22年間信長に仕えた。

N:織部と利休の接点は?

私:信長死後、織部は利休の弟子になる。利休没後の25年間、織部茶の湯界に君臨した。

N:利常とは?

私:接点はない。織部は「傾奇者」で、「破調の美」とかいって器を故意に割る。そしてそれを継ぎ合わせる。利常と接点があればおもしろかったのに残念だ。

N:秀吉とは?

私:利休死後、秀吉に命じられて、織部は茶道を武家儀礼用に変える。それゆえ織部の茶は利休の茶と大きく異ることになる。

N:家康とは?

私:豊臣氏大坂の陣)との内通の嫌疑で、切腹(殉死)に追い込まれる。

N:織部キリシタンだったとしても利休ほどのインパクトはありません。

私:利休があまりにも偉大だったため、織部が利休の二番煎じに見えるのだろう。

古九谷を追う 加賀は信長・利休の理想郷であったのか(幻冬舎)抜粋

茶人を見直そう(1)茶人とは

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 私:ここからは茶人を語ろう。古田織部、金森宗和、そして小堀遠州と進めよう。

N:そもそもですが、茶人とは? 

私:茶人、茶人と気安く言うけれど、織部遠州は大名だ。織部は山城西岡藩3万5000石の大名で、遠州は近江小室藩1万5000石の大名だ。

私:茶室は利休と織部の時代は「密談」の場所だった。生殺与奪が絡んだ。しかし時代は移り、遠州の時代は元和偃武の平和な世は、茶室はおもてなしの世界となる。いうなれば、遠州は茶の職人かな? 

N:茶の職人とは?

私:茶事のアドバイザーでコーディネーターかな。しかし茶人は茶事ばかりでなく文化全般を取り仕切る。たとえば将軍の御成。膳の内容は? 二の膳、三の膳は? 役職や身分差は? 将軍の駕籠かきも膳につく。使う食器は磁器か陶器か? 蒔絵はどの役職まで? 能も茶会もあるし、改めて膳もある……。

N:文化全般の指南役といった感じですね。

私:庭の作事などは初歩の初歩だ。そもそも御成御殿や御成門の建設がある。加賀藩5代綱紀のとき、将軍綱吉の御成があり、総費用は36万両。いまならスカイツリーと東京ドーム、二つが同時に出来上がる。

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(4)信長後継

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 N:利常も、利家同様、信長後継を秘かに思っていたのでしょうか?

私:利常からはゼニの匂いがしない。「改作法」は利常の成果だけれども、織田のゼニ経済ではなく、徳川の米経済に軸足を置いているしなあ。

N:「古九谷」も売ろうという気配はありませんね。

私:利常と信長との接点は一つしか思いつかない。利常は瑞龍寺(利長菩提寺)の「織田信長御分骨廟」を建立した。1654年、利常の死の4年前のこと。

N:しかしこの程度では……。

私:勤王家としては信長と似たところはある。利常はなによりも天皇の義兄で、親王の義父だったから。それと、二人とも手仕事を大切にした。

N:信長が手仕事を?

私:そうだよ。信長の伊勢神宮式年遷宮の再興を話しただろ。式年遷宮があるおかげで、日本の手仕事が現代まで継承されているんだ。

N:へえ。そういえば信長は「おおうつけ」で、利常は「鼻毛のうつけ」……。

私:おいおい、作蔵君。それはともかく、利常のアイデンティティーは利家で、利家のアイデンティティーは信長。この構造は一貫している。

N:利家の信長崇拝と比べるとひどく見劣りがしますが……。

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(3)世界を見据える

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N:ところで、先生、利常の目は世界に向いていましたかね?

私:利常は世界を見据えていた。東インド会社を通じてデルフトに注文した「和蘭陀白雁香合」(県美)をみても、利常の目は世界に向いている。

N:中国へは?

私:中国への高い関心は『八種画譜』の存在が物語る。1620年代の『八種画譜』が「古九谷」の手本とされるほど、利常は中国の事情に詳しかった。海外から輸入品を買いつけるために、長崎に「御買物師」を常駐させていたほどだからね。そして京都から「目利き」を長崎に派遣し、金に糸目をつけず文物を蒐集させている。

N:どんなものを集めたのでしょう?

私:名物裂や中国の漆器、茶道具や色絵陶磁器だな。那谷寺には「万暦赤絵 五彩大花瓶」、小松天満宮には「三彩金襴手龍文双耳瓶」が寄進されている。

N:伊達政宗のような大きなスケールの話がありませんか?

私:時代は禁教令の強風が吹き荒れ、利常はついに世界に羽ばたけなかった。

N:政宗仙台藩の黒船で太平洋を渡り、メキシコ経由でスペインへ行きましたよ。天下への野望を抱いてのことだと思うのですが。

私:政宗の黒船は1613年で、大坂の陣の前のことだ。まだ豊臣家が健在のときで、そのとき利常はまだ20歳前。

N:利常は生まれるのが10年以上遅かったのですね。

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(2)改めて後水尾天皇の「文化サロン」とは?

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N:改めて後水尾天皇の「文化サロン」を教えてください。

私:江戸幕府が日本を支配し、平和な時代が到来して、寛永文化が花開く。京都では対徳川を意識して後水尾天皇がその文化の中心になり、朝廷に「文化サロン」ができる。身分にとらわれなかったために、いろいろな文化グループが活発に交流していた。鷹峰人脈も参加していた。前田家ゆかりの茶人(遠州、宗旦、宗和)や絵師(探幽)、光悦や宗達はもちろんだ。利政(利家次男)も参加した。利政の娘の嫁ぎ先の角倉などの豪商や公家も参加していた。

N:サロンのスポンサーは誰でしょうか?

私:利常だな。なによりも利常の宮家への行き届いた財政支援が見逃せない。利常の資金援助が「文化サロン」を支えていた。

N:利常は天皇の義兄であり、親王の義父でしたものね。

私:しかし利常は「公家」の文化にのめり込まず、「武家」の文化の本領は忘れなかった。一方で天皇を圧迫する徳川へは強い反発があった。ともかく利常は南北朝以前の天皇を中心とする文化国家に強い憧れを抱いた。

N:利常は天皇の文化と武家の文化をどちらも並び立つようにしたのですね。

私:天皇の文化と武家文化。利常は二つの文化をハーモニーさせたことで、京での「寛永文化」のスポンサーとして、一躍世に出たのである。「古九谷」も、当然、その流れの中にある。

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